ビルの最上階を遮るものの無い夕陽が、彼の金糸を殊更輝かせている。書類をめくる微かな紙すれの音以外は、全てが止まってしまったような空間の中で、低い空気音の後エレベータの扉が静かに開いた。煙草を咥えた口元に、シニカルな笑みを浮かべながら、入って来た長身の男を、
「何だこの、現地秘書ってのは」
 その顔色一つ変えず、部屋の主は濃紫の瞳を冷たく光らせた。




君 が 遠 く て …




「今度の商談に、必要不可欠のアイテム」
 冷酷な視線をもろともせず、彼は革張りのソファにどかりと腰を下ろし、紫煙を吐き出した。
「ふざけんな、誰がそんなモンを付けろと言った」
 オクターブ下がった声音と共に、手元にあった書類が宙を舞った。それを追っていた緋色の視線が、彼に戻る。
「あの街は一筋縄じゃいかねえんだよ。商談を成功させたいんなら、今回だけは向こうの意見に従うしか方法はねえ、お前だって解ってんだろ社長様」
 社長と呼ぶわりに馴れ馴れしい口調を一向に改めようとせず、
「とりあえず、あの街で一番の顔利きに紹介してもらった奴だ、その目で確かめてからでも、遅くないんでない?」
 そう言って、大理石の灰皿に煙草を押し付けながら、
「社長、飛行機の準備が整いました」
 仰々しく立ち上がってエレベータの扉を開けたその男に、凶器の目を絶やさず、金の人は無言でそれに乗り込んだ。


 夕陽を飲み込もうとする闇の中を銀の翼が閃き、機上の人になった彼は数時間後に訪れる出逢いを知る事無く、ただ美しい顔を不機嫌に彩りながら紫煙を吐き出していた。




#1 〜出会い〜



 朝もやに浮かび上がる金糸が、陽光をうけて煌めく。
 そこに居る全ての人間の視線をたった一人で受け流し、白磁の貌に一切の感情も表さずに彼は、待ち受けていた車に乗り込んだ。
 オレンジ色のルームランプの中で、僅かに顔を伏せて目を閉じ、目的の場所に到着するまで、ただの一度も口を開くことは無かった。

「ようこそ翠蝋郭(すいろうかく)へ、私が主の猪八戒です」
 ちらちらと、蝋燭の明かりが揺れる仄暗い一室で、あまりに場の空気とそぐわない笑顔を浮かべて、八戒と名乗った男は、彼玄奘三蔵を出迎えた。
「表の看板は、隠れ蓑か」
 入り口に掛かる薬膳の看板を思い出し、三蔵は抑揚の無い声で呟いた。
 それをただ笑顔で受け流した八戒が、円卓の向こうで指をぱちりと鳴らすと、壁に掛かっていた一枚の絵画が音も無く上昇し、現れたモニタ画面に一人の男が映し出されていた。
「九龍の長、黎明です。貴方の事は話してありますが、まだ面会の承諾は貰っていません」
「どういうことだ」
「貴方の素性を図りかねているようです」
 八戒の口調に嘘は感じられなかった。予想していた事とは言え、三蔵は心中で舌を打った。だが、今度の計画にはどうしても九龍の土地が必要なのだ。その為に、来たくもなかったこの街へ、自ら出向いたのだから。
「ホテルに戻る。連絡が来たら、使いをよこせ」
 低い声で告げ、身を翻した三蔵の背後で、彼を呼び止める声。
「現地秘書…を、忘れてますよ」
「んなモン、奴に会う時だけで十分だ」
 一言で切って捨てようとした三蔵に、八戒は苦笑いを浮かべながら、
「ご自分の立場を解っていませんね、この街では貴方の首に金が着いてるんですよ」
 話の内容ほど慌てた風もないその口調に、三蔵は剣呑な視線を投げつけた。
「彼は貴方にとって、けして邪魔な存在にはならないと思いますよ」
 凶器の瞳に臆する事無く、八戒はむしろ楽しそうにその口角を上げた。
 そして再び指を鳴らすと、八戒の背後から現れたその人物に、三蔵は脳天から雷(いかずち)を受けた様に、一切の動作を止めた。