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スタートライン
目覚ましの無機質な電子音に、意識が否応なく浮上する。
片腕を布団から伸ばして、スイッチを叩くように止めてから、三蔵は重い瞼をこじ開けて、その存在を確かめた。
己の腕の中で小さな寝息を零すイキモノに、口元は自然と綻ぶ。十年来の幼馴染と、よもや同じ朝を迎えるなど、正しく青天の霹靂としか言い様がないが、あどけない寝顔を晒すその愛しい少年を、三蔵は飽く事無く見つめていた。
「どうしよう三蔵、もう訳分かんね…」
「そうやって直ぐに投げ出すからだろ、頭っからやり直せ」
ダイニングテーブルに、向かい合って座る二人の前には数冊の参考書と、問題集。煙草を咥えて片肘で頬杖を付く三蔵の前には、胡桃色のクセっ毛が本来の年齢よりもずっと幼く見える少年が座っていた。
「ったく、アセって考えるからだ。一つずつ公式をあてはめろ」
言いながら丸めた新聞で、頭をコツリとやる。痛くは無いが、大仰に顔をしかめた少年を、ふんと鼻であしらってから、
「落ちたら一年間は、ここの出入り禁止だ」
死の宣告よりも厳しい一言に、少年はがっくりと肩を落とした。
夏休みが終わってから、こうして三蔵の部屋に上がりこんでは、勉強を見てもらっている悟空は、三蔵が以前住んでいた家の隣に引っ越してきた、五歳年下の幼馴染だ。
幼い頃から自分を兄のように慕い、今年高校三年となった悟空は、三蔵と同じ大学を目指している。
お互い相手に対して、特別の感情を抱いているが、それを改まって口にしたことは無い。
そんな二人の歯車が、悟空の受験をきっかけに、ゆっくり回りだした事など、週末のテストに頭を悩ませている二人が、気付くはずも無く。
悟空の情けない声と、三蔵の振るう新聞ハリセンの音だけが、冷え込んでいく夜空に響いていた。
「三蔵、今日の打ち上げ出ますよね」
早足でキャンパスを歩く三蔵の背後で、柔らかい声音が響いた。
三蔵は、露骨に顔を歪ませながら、彼を振り返る。が、そんな事は慣れっこだと言うように、笑みを絶やさずにその人は、立っていた。
「んな、面倒くせえモンはゴメンだ」
「そうは言っても、一応今回のプロジェクトには、貴方も加わっているんですから」
建築家を目指す三蔵は、卒業後大学院へ進み、教授の助手として様々な建物の設計に関わっていた。打ち上げとは、先ごろ完成した緑道公園の施主が内々に主催したパーティーの事だ。成人はしていても法律上学生である、三蔵たちに気を配った宴なので、その主役となる学生が来なければ、話しにならないのは当然の事といえる。
だが、三蔵はそういった誘いを、とかく毛嫌いする。
悟浄と足して二で割れば、丁度よくなりますかねぇ。八戒はここには居ない、もう一人の人物を思い浮かべ、小さく嘆息した。
「バカ騒ぎに出てる暇なんかねえよ」
話は終わりだとばかりに、三蔵が煙草を咥えて火をつけた途端、
「悟空ですか?」
むせ返るのをかろうじで止めると、じっとりと目の前の八戒を睨み付ける。
だが、三日月眉を崩さずに笑う八戒は顔色一つ変えない。
「分かってんなら、もう用はねえだろ」
三蔵が踵を返した。その背後に、八戒は切り札となる一言を、浴びせかけた。
「李厘さんが見えるので、教授が必ず貴方も同席しろと、言ってますけど」
その言葉に、三蔵の足が止まる。数瞬の間を置いて、半分も減らない煙草を投げ捨てると、振り向いたその顔に八戒は苦笑いを漏らした。
むっつりと歩き出す三蔵の一歩後ろで、自分のなすべき役回りを、超高速で構築する。
『まずは悟空ですね…』
どうせ目の前の人物は、自分を待っているだろう少年にあれこれと、言い訳じみたことを言うはずがないと、十分理解した上での事。
「悟空には、僕から知らせておきましょうか」
八戒の言葉に、苦虫を噛み潰し地を這うような声で「頼む…」と、返ってきたのは、講堂に設けられた会場の扉に手を掛ける間際だった。
駅の改札を飛び出したところで、携帯が鳴った。
表示された名前を見て、浮かんだのは美味しいクッキー。ばれたら怒られるかも。と思いながら、
「八戒?どうしたの」
「悟空、今どこですか?」
挨拶も何もない、年上の友人の優しい声が耳に響いた。
「三蔵んとこ」
悟空の返事を予想はしていた。が、これから告げる自分の一言で、小さな端末の向こうの表情が分かってしまうだけに、八戒の顔から笑顔が消えた。
「スイマセン悟空、今日僕たちは教授に呼ばれてしまったんです。帰りは何時になるか、分からないのですが……悟空?」
呼びかけに小さなため息が返り、
「分かった…じゃあ、三蔵に伝えてくれる。校内模試4番だったって…」
どこか寂しそうなその声に、八戒は勤めて明るい声を上げた。
「凄いじゃないですか、悟空。がんばりましたね、必ず三蔵に伝えますよ」
「うん…三蔵に、ありがとう…と、あんま飲み過ぎないようにって…」
「分かりました。最後のはよく釘を刺しておきましょうね」
その言葉に、小さく笑った気配を感じて、八戒は通話を終えた。
携帯を上着のポケットに仕舞い込むと、大きく息を吐いて目の前の扉を開けた。
八戒との電話を切った後、悟空は結局三蔵のマンションまで来ていた。
今日返ってきた校内模試の結果を、どうしても三蔵に見せたかったのだ。
文句をいいながら、それでも自分の勉強を見てくれた三蔵。彼のことだから、きっと褒め言葉なんかはないだろうが、自分が三蔵の顔を見てお礼を言いたかったのだ。
「成績表だけ置いてこよう」
一人呟いて歩く悟空が、マンションの入り口に差し掛かった時、脇に止まっていた真っ白なベンツから、一人の女性が降りてきた。
その横を通り過ぎようとした悟空に、
「悟空君?」
声に振り返った悟空に、微かな笑みを湛えたその人が近付いてきた。
「私、西国建設の者で、李厘と申します」
風が李厘と名乗った女性の、薄茶の髪をふわりと撫でていった。
その人が機嫌のいい時なんてあるのか、と思うくらい普段から無愛想な表情が、今日は輪をかけて凶悪さを増している。のだが、そんな事はどこ吹く風とばかりに、小春日和な笑顔を絶やさず、八戒は読んでいた本を静かに閉じた。
「どうかしましたか?貴方がここへ来るのは珍しいですが…」
いつもより少しだけ声を落としているのは、そこがキャンパス内の図書館だからだ。
「昨日、猿に変わったとこは無かったか」
問う三蔵の声も幾分抑えてはいる、それが却って怒気を含んでいるように感じるが、もちろん目の前の青年は気にはしていない…
「悟空ですか?いいえ、別に…確かに模試の結果を直接貴方に言えないのは、残念だったようですが」
何かありました。と、視線だけで問う様に、三蔵を見上げた。
彼は少しの間を置いて、眉間の皺を増やしながら、搾り出すような声で呟いた。
「郵便受けに、成績表と鍵が入れてあった…」
「鍵って…」
「悟空に渡した、俺の部屋の鍵だ」
それっきり重い沈黙生まれ、窓から差し込む陽光が、三蔵の影を長く床に落としていた。
「悟空、今日も図書館か?」
下駄箱で靴を履き替える、自分の背後から現れた親友の言葉に、悟空は曖昧な笑みを零した。
「ま…な、この頃三蔵、忙しいからさ…」
応えた悟空の表情が、いつもの明るさでない事ぐらい、直ぐに分かる。三蔵ほどではないにしろ、彼だって悟空との付き合いは伊達ではないのだ。
だが、那托はそれ以上聞く事もしないで、
「オレも付き合うよ、今回の模試ちょっちヤバかったから」
ニカっと白い歯を見せる那托に、悟空が笑う。親友のちょっとした優しさが嬉しかった。
何も聞かずに、付き合ってくれる。
それだけで、今の悟空には救いだった。
一人になれば、あの人の言葉が蘇る。
『そろそろ、三蔵さんを自由にしてあげたらいかが』
そう言って微笑む、李厘と名乗った女性の氷の冷たさが、悟空の心に棘の様に突き刺さっていた。
『お兄ちゃん…
三蔵兄ちゃん
—— 三蔵!』
ずっと一緒が、いつの間にか当たり前になってた。
「もう子供ではないのだから、あまり三蔵さんの後ばかりついて行くのは、おやめなさい。貴方がいつまでもそんな風だと、三蔵さんが安心できないでしょう。立派に自立する事が、今までのご恩返しじゃないかしら」
あの女性(ひと)の、言う通りかもしれないと思った。
三蔵は、いつも自分の話しを聞いてくれたけど、本当は迷惑だったんじゃないか。
しょっちゅう三蔵のところに上がりこんでいたから、彼は恋人も部屋に呼ぶ事が、出来なかったのかもしれない。
血の繋がりも無いのに、こんなに長く一緒に居ちゃいけなかったんだ。
だから ————
あの日、もう会わないと決めて、成績表と合鍵を郵便受けに入れた。
家に戻って、悟空は布団を被って泣いた。
泣いて、全部忘れるつもりだった…
だけど、忘れるなんて出来ないよ…三蔵 ————
「……あ」
冷たい枕の感触で目が覚め、それが自分の涙だと気付くと、ごしごしと目元を擦った。枕元の時計を見れば、目覚ましよりも早い時間を指していたが、もう一度寝る気にもならずに、悟空はのろのろと起き出した。
三蔵に部屋の鍵を返して1週間が過ぎた。
携帯に三蔵からの着信があったのは三日前、それからは一度も彼からの連絡は無い。
それもそのはずである。毎日のように掛かって来た電話を、悟空は一度として、取らなかったのだから。
声を聞けば何を口走るか分からない。自分を保っていられる自身など、どこにも無いのだ。
開館時間を待って訪れた図書館。
けれど開かれたノートは1ページも進まず、悟空は頬杖を突いたまま、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
「心ここにあらずですね。悟空…」
不意に背後で聞こえた声に、悟空は身を硬くした。
声の主は悟空の隣に静かに腰を下ろすと、その柔らかい翡翠で少年を見つめた。
「八戒…どうして…」
「那托に聞きました。きっとここだろうって」
心配してましたよ那托も。そう続いた八戒の言葉に、悟空は困ったように表情を強張らせた。
「悟空…何があったのか、話してくれませんか?」
慈しむように背中に触れた八戒の手が、温かく悟空を包み込んだ。
視線を机に落とし、両の拳をぎゅっと握り締めて悟空が口を開くまで、八戒はじっと待っていた。
「三蔵には…言わないって、約束してくれる?」
ポツリと漏らしたそれに、背中の手がぽんぽんとあやす様に、叩かれた。
悟空は大きく息を吸って、それから、
「もう、三蔵に逢っちゃダメなんだ…」
震える声で話し始めた。
八戒は黙って悟空の話を聞いていた。が、体の奥底からふつふつと、湧き上がる怒りに、いつもの穏やかな翡翠が濃い色に変わる。
あの日、自分たちの前に遅れて現れた李厘が、こんな行動に出ていたとは。
『血は争えない。と、言う事でしょうか…』
数日前に新聞で見た女性を思い出す。
李厘の母親、玉面は亡夫の遺した建築会社を、僅か数年で業界のトップにのし上げた女性である。
経済界の表も裏も賑わす、美貌と野心は、その一人娘にも受け継がれたようだ。
欲しいものはどんな手を使っても、手に入れる。
目下のところ李厘のターゲットは三蔵だが、彼自身が悟空以外の人間に興味が無いので、二人の関係がどうこうなるものでは無いという確証が、八戒にはあった。が、その矛先が悟空に向いているのであれば、話は別である。
悟空に何かあれば、それは三蔵の逆鱗に触れると言う事だ。
解決するには、事実をそっくり三蔵に告げてしまえばいい事だが、ここ数日の彼は、周りを寄せ付けないほど不機嫌の度合いが大きい。
かくして、悟空専属のカウンセラーは、人のいい笑顔を貼り付け、少年に話し始めた。
閑寂な図書館に時折響く足音。
俯いていた悟空は気付かなかったが、書棚の片隅に佇む影へ、八戒の視線が動いた。
けれど彼は、何事も無かったかの様に、柔らかな翡翠を少年へと戻した。
「悟空、この頃の三蔵、元気が無いんです」
声音を少しだけひそめた八戒に、悟空は驚いたように顔を上げた。
「三蔵が?」
大仰に頷いて、八戒は続けた。
「僕たちには、何も話してくれないんです。でも悟空にならきっと三蔵も、話をしてくれるはずです。だから悟空、三蔵に会ってくれますか?」
「え、だって…俺」
言葉を濁して俯いてしまった少年の肩に、手を置いて八戒は諭す様な口調でこう告げた。
「三蔵も貴方も、元気が無い理由は同じなはずです、だから二人で話し合ってください。二人の事は二人で解決しなければ」
「八戒…」
「悟空だって、このまま三蔵に会えなくなるのは嫌でしょう」
その言葉に、ズキンと胸が痛んだ。
嫌に決まってる。実際、今だって本当は会いたくて会いたくて、仕方無いのだ。
会わないと決めたあの日から、想いはどんどん膨らみ、自分がこんなにも三蔵を好きだったと、思い知らされた。
「八戒…俺…三蔵に、会いたい…」
小声で呟いたそれは、確かに聞こえたはずである。
「三蔵も、貴方に会いたいと思っていますよ。きっと」
微笑んで告げると、席を立った。
「八戒?」
「ちょっと、席を外しますね」
踵を返す年上の友人を、悟空はただ見送る事しか出来ず、その姿が消えてしまうと、ため息を吐いて視線を外へと走らせようとした。
「———!!」
心臓が止まってしまうかと思った。窓から差し込む陽光を受けて、天上の太陽よりも光彩を放つ金糸。その奥の深い紫暗が、じっと悟空を見つめていた。
「さん、ぞ…」
Tシャツの胸元を握り締め、やっとの思いで紡いだ、今一番呼びたかった名前。
三蔵は、ゆっくりと悟空に近寄った。
深い紫に射抜かれて、瞬きもできず、悟空は三蔵を見つめていた。
床を鳴らす足音が消え、空気すらも止まってしまったかの様な沈黙の中、音も無く伸びた指先が、少年の頬を滑った。
「悟空…」
風景が滲んだ ————
『さんぞぉ…』
悟空の口は確かにその名を読んだのに、それは音にはならず、むせび泣く声だけが、三蔵の耳を震わせた。
「何故…黙っていた」
問う声は静かで、本当は答えなど聞かなくても、分かっていた。
三蔵は胡桃色の頭を引き寄せ、何も言わず、何も聞かず、悟空の背を撫でていた。
「…ごめん…な、さい」
未だ涙の滲む金瞳が、三蔵を見上げる。
「気が済んだか」
穏やかなその声に、安堵したような吐息が悟空の口から漏れた。
三蔵は柔らかい髪をくしゃりと雑ぜて、悟空を立ち上がらせ、
「帰るぞ」
荷物をまとめた悟空の手を、しっかりと握ったまま、図書館を後にした。
悟空はぽつりぽつりと話し出す。
三蔵は時折、小さく頷く。
そして、目の前にその車が見えた途端、悟空の足が止まり、三蔵は握っていた手に力を込めた。
車の前に立つ女性は、その表情一つ変えず二人を見据えている。
悟空は半身を三蔵の後ろへ寄せると、俯いて小さく肩を震わせた。
「三蔵さん、母が三人で食事をと言ってるのだけど」
「行かねえと言ったはずだ」
三蔵のその声を、悟空は初めて聞いたような気がした。恐ろしいほどの冷たい声。
「私よりも、その子を選ぶと言うの」
氷の視線が、悟空を貫く。が、それを鼻であしらうように、三蔵が口を開いた。
「自惚れもここまでくると哀れだな。いつ俺がテメエと、こいつを比べた」
「な、んです…って」
「二つに一つじゃねえ、はなっからこいつだけなんだよ」
三蔵の言葉に鼻の奥が熱くなって、悟空は彼の背中に顔を押し付けた。
久しぶりに訪れた三蔵の部屋は、少し緊張する。
なんとなく居心地が悪くて、悟空は部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
「何、緊張してんだ」
そのものを指摘され更に縮こまると、頭の上で小さなため息が聞こえ。それから、鼻を擽る三蔵の煙草の匂いに、悟空は漸く自分が抱きしめられているのだと理解した。
嬉しくて、でも身体の奥から湧き上がるのは、喜びだけではなくて、悟空は最後まで残っていた不安を言葉にした。
「俺…三蔵の傍に居て、いい…の?」
今度こそ三蔵は呆れたように息を吐くと、悟空の後ろ髪を引っ張り、顔を上げさせた。
「お前は、俺が好きでもなんでもない奴に合鍵渡したり、ゼミ休んで勉強見てやる奴だと、思ってんのか」
その遠回しな告白は、けれど悟空には十分で、三蔵を映す大きな金瞳から、再び大粒の涙が零れる。
「……ふぇ」
「泣くな」
そう言って降りてきたのは、温かくて柔らかい三蔵の口唇。
両の瞳に幾度も贈られ、悟空はずっと心に仕舞っていた想いを、初めて三蔵に伝えた。
「好き…三蔵が…三蔵だけが、大好き」
頬を染めて、けれど真っ直ぐ瞳を逸らさずに、告白は成された。
そして、三蔵もまたそれを受け止め、腕の中の少年を見つめ返す。
「ああ…俺もだ、悟空」
囁きは間近で聞こえ、二人の影が静かに重なった。

何気なく始めたパラレル。結構、ハマった(^^
オマケは、その後です
コチラから>> |
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