落 日 久しぶりの宿での夕暮れ。 悟空は、散歩がてらに宿の裏手にある丘へ一人で、来ていた。 ごろりと横になって、大きく伸びをする。ジープに長いこと揺られてきた体が、隅々まで伸びていくようで、気持ちがいい。 「あっー、ラク…」 大の字のまま空を見上げた。陽の沈みかけた青と赤、そして二つの色が交じり合った、澄んだ紫がそこには広がっていた。 けれど、その色を見た途端、悟空の心臓が大きな音をたてた。 「何だ?…」 何故か、すごく大切な事を忘れてしまっているようで、急に落ち着かない気分になる。あの空と同じ色の瞳を持った誰か… 「誰だ…知ってる…のに…」 苦しい、心はこんなにも憶えているのに、何も思い出せない。 痛い、イタイ、いたい…心が悲鳴を上げる。 「助けて、誰か…誰……さん…ぞ」 「―――― っ」 「どうかしました?」 いつもの彼らしくない声を聞いて、八戒は三蔵の顔を覗き込んだ。左胸を押さえている。 「痛むんですか?ケガなんか、してましたっけ」 「知るかよ…」 悪態をついている内に、すっと痛みが引いていく。今のは何だったのか…突然の刺す様な痛み。傷を負ったわけでもない、しかし息が止まるくらいの… 舌打ちをして、煙草に手を伸ばす。心なしか心配そうに見ていた八戒も、彼のいつもの行動に、視線を外し何気なく窓の外を見た。 息を呑むほどの美しい夕焼け、差し込む陽光(ひかり)が、部屋中を茜色に染め上げる。 「すごい夕焼けですね…」 返事など最初から、期待はしていない。この有髪の最高僧は、全てにおいて、二つに一つの人物。興味が有るか、無いか。執着するか、しないか。白か…黒か… 人間なら、誰もが持っているだろう「あやふや」を、彼は見せたことが無い。それはある意味、彼の強さでもある。 だから八戒は、その瞳が揺れ動いたのを見た時、少しだけ口元を綻ばせた。彼がそんな風に、表情を崩す時は決まって、ある人物の事を考えているからである。 「悟空なら、さっき散歩に行くと、出て行きましたよ」 「関係ねぇ…」 本当は嘘である。先ほどの胸の痛みが治まった途端に、聞こえ始めた声…己にしか聞こえない、己だけを呼ぶ声。 ……助けて…三蔵。 何故…それが自分なのか。考えた、考えて考え抜いて、でも分からなくて、そして止めた。止めてあいつの声を受け入れた途端、何かが廻り始めた。最初は随分と戸惑ったが、能天気なあいつの笑顔が己の名を呼ぶ度に、こんな生き方も悪くないと思い始めた。 悟空の存在は、確かに自分の何かを変えた。 「悟空は…」 三蔵の思考を絶つ様に、八戒の柔らかい声が響く。 「悟空は、時々すごく遠い瞳をして、夕焼けを見ますよね…」 まるで、何かを思い出そうと、するように。そんな言葉を続けて、八戒は少しだけ、寂しそうに笑った。 三蔵が悟空と出逢った時、彼は名前以外の一切を失っていた。思い出せない不安は、いつも彼の中に存在していたはずだ。 気が付くと、声が止んでいた。 「どちらへ?」 おもむろに立ち上がった三蔵に、八戒は分かりきっている事を聞いた。 「煙草が切れた」 一言告げて、廊下へ消える後ろ姿に、さっきとは違う笑みを零す。 「本当に、素直じゃありませんねぇ」 「俺を呼んでおいて、居眠りたぁいい度胸だな。猿」 言ってはみたものの、起きる気配の欠片も無い。 「おい、猿いいかげんに、起き…」 つま先で背中を突付く、ころりと動いた。が、その顔を見て、三蔵はため息をつくと、膝を折り悟空のそれへ指を伸ばす。頬に引かれた涙の筋と、睫に残る粒。 「悟空…」 形の良い三蔵の指が、涙の粒を掬う。ぴくりと瞼が震えゆっくりと金の瞳が現れる。二、三度瞬きをして、自分を見つめる紫暗を見つけると、再び大粒の涙が湧き上った。三蔵はそれも同じ様に拭い、少しだけ呆れたように言った。 「泣くな…てめえは、一人じゃねえだろ」 その言葉に、縋る様に伸ばされた腕を取り、三蔵は震える身体を抱いた。声も上げずただ涙を流し続けるその姿に、胸の痛みが蘇る。 慰める言葉を待たない自分が、悟空に出来ることは抱きしめてやる事だけ、温もりを与えてやる事だけだった。 辛い過去なら、思い出したくも無い過去なら、無い方がマシだと思っていた。過去は自分の弱さを突きつける、何も出来なかった幼い自分を。だが、過去が有るからこそ、時に立ち止まる事が出来る、歩んできた道を振り返る事が出来るのだ。 悟空には、その振り返る過去がない… 「思い出したいか」 唐突な三蔵の問いかけに、悟空が顔を上げる。 「三蔵…」 「過去を、思い出したいのか?」 自分では、悟空の心に空いた穴を埋める事は、出来ない。それならば… 「いらない…」 真っ直ぐに、自分を見つめたその瞳は、先ほどの様な儚さは無い。 「いらない。過去なんて、必要ない」 「悟空…」 へへっと、自らゴシゴシと頬をこする。 「だって、三蔵よく言ってんじゃん。俺たちは前に進むだけだ、って」 そこに居るのは、いつもの悟空。赤くなった目が少しだけ痛々しいが、それでも笑顔は、三蔵がよく知っている、太陽の様なそれ。 「お前は、強いな…」 「三蔵が居るからだよ。俺、決めたんだ強くなるって、三蔵と一緒に居る為に、強くなるって」 三蔵の口元が緩む。 「単細胞」 「何だよそれ」 あまりの言い方に、悟空が顔をしかめる。そんな事に怯む三蔵であるわけも無く、並べた言葉に悟空も反撃に出る。抱き合ったまま紡がれるそれは、彼らなりの愛の囁きか… 「単純」 「短気!」 「チビ」 「むー、タレ目!」 「猿」 「っと、生臭!」 「ガキ」 「……」 「何だ、終わりか。バカ猿」 「…き」 「ああ?」 「…すき…」 俯いて、見える耳は夕日より尚、赤く。 「聞こえねえな」 笑いを堪えているようなその声に、抗議をしようと顔を上げれば、吸い込まれそうな紫暗の瞳。女のように頬を染めたその顔を、見られたくなくて悟空は咄嗟に三蔵の首へ腕を回し、肩口へ顔を埋める。 「三蔵が…好き」 「…知ってる」 胸の痛みは無い…有るのは愛しさ、唯一無二の。 「帰るぞ」 「うん」 空の紫は濃い闇色に、姿を変えようとしていた。少し冷たい風が並んで歩く二人の髪を、頬を撫でていく。ふいに足を止めたの三蔵は、己の右手次いで悟空を見下ろす、見上げる悟空と目が合った。 「だめ?」 「……」 返事の無い事を、拒否と取ったのか握られた指が、離れようとする。 「宿の、入口までだ」 その手を握り締めたのは、三蔵。 陽だまりの様に笑う悟空と、能面のような三蔵。正反対の表情で、けれど繋いだその手は、互いを握り締め、決して離さぬように。 copyright(c)karing/Reincarnation
あとがき 29/November 花淋 |