夕闇の迫る森の奥。 吹きはじめた風が、その温度を下げていく。 小石が一粒二粒、土で汚れた頬を叩く。 低い唸り声の後、悟空がゆっくりとその瞳を開いた。 Calling 数時間前――― 「悟空、あまり遅くならないようにしてくださいね。 もう外は寒くなってますよ」 「うん。 夕飯までには戻るよ」 西への旅の途中、立ち寄ったそこは活気に溢れ自然豊な町だった。 時間もあることだ、部屋で大人しくしているのはもったいないと、悟空は立ち上がった。 絶対に断られると分かってはいるけれど、三蔵を散歩へ誘う。 「行くなら、一人で行って来い」 なんて言うか、あまりに予想通りな返事に、笑わずにはいられなかった。 「じゃあ、行ってくる」 と部屋を出るときに、八戒とそういう会話になったのだ。 外に出れば町並みは賑やかだ。 幸いにして、この辺はまだ妖怪の変異の被害がない所為も、あるのかもしれない。 久しぶりの穏やかな時間に、大人の活気と子供の笑顔。 本来あるべき日常に触れて、気持ちが緩んだのもまた事実だった。 町を抜けて、紅葉もそろそろ見納めかという森に足を向ける。 枯葉を踏む乾いた音と自分の息遣い。 時折聞こえる、鳥のさえずり。 木立を茜色の夕日が色濃く染め上げ、世界が黄金(こがね)に色づく。 なんて綺麗な金だろう。 本当なら、 「三蔵と一緒に見たかったな」 声に出して呟くと、少しだけ隣に彼がいないことが寂しく感じた。 森の奥へ歩を進めた事に深い意味はなかったけれど、あの時町へ戻っていればこんな事にはならなかったな。 と、今の状況に一人ため息をついた。 「陽が沈んだら、もっと寒くなるかなぁ……」 洋服から出た素肌のあちこちに擦り傷を作って、悟空は空を眺めた。 そのまま視線を横へずらす、高さこそあまりないけれど、自分があそこから落ちた事は間違いないようだ。 立ち上がる事はできるが、左腕は上げようとすれば鋭い痛みが走った。 「折れてはないと思うけど」 一人ごちて再びため息。 「探しになんて、来てくれないよな……」 もしかしたら、このまま置いて行かれるかも。 ふと、そんな事を思って、悟空は慌てて頭を振った。 ぶるっと身震いを一つして、知らずため息をもう一つ。 「三蔵……」 聞こえるわけはない。 でもきっと、届いているはず。 それは、自覚のない彼を呼ぶ己の音なき声。 そこは昏く冷たい空間だった。 何故かは分からない、気付いたときにはここに居た。 外へ出ようにも、手足の枷は外れず格子も抜けられない。 声の限り叫んではみたけれど、呼べる名前は一つもなかった。 泣いて、叫んで……来る日も来る日も同じことを繰り返して、そして、叫ぶ事を止めた。 声を出す事を止めた。 ただ、この心が届いて欲しい。 それだけを願った。 何日も、何年も、何十年も。 ―――おい、俺を呼んでいたのはお前か ―――俺、誰も呼んでないけど……あんた誰? 次の瞬間、目の前の格子が音もなく消え失せ、重い枷がするりと腕から抜けた。 差し伸べられた手をぎこちなく取って、悟空の時間がゆっくりと動きはじめる。 「最初は怒られてばっかりだったよなぁ」 物は壊す、供え物を食い散らかす。 その度にハリセンが飛んできたけど、「出て行け」とは一度も言われた事はなかった。 僧徒たちの心無い言葉に傷つき、小さな膝を抱えていれば三蔵は必ず傍に寄り添ってくれた。 何も言わず、ただ悟空の顔に笑みが戻るまで。 その後知り合う二人の仲間から、三蔵への「特別な感情」を教えられ、そして新しい歯車が回りだす。 始まった西への旅。 それは悟空の心と身体に、大いなる影響を及ぼした。 生命の危険にさらされ、死地を彷徨ったことも一度や二度ではない。 互いの姿を見ることもないくらいに離れてしまった事もある。 それでも……抱きしめてくれる腕の強さや温かさも変わらず、心が別れてしまう事もなかった。 ―――お前が、必要だ 三蔵の一言が、悟空の全てを決めた。 覚悟を決めた。 自分は死なない。 そして、誰も死なせない。 けして仲間に話すことは無いけれど、悟空自身が自分に課した使命だ。 「俺は一人じゃない。 仲間を頼る事は弱さじゃない」 そう教えてくれたのは三蔵だ。 「でも今は、自分の力で」 はっきりと口にして、静かに左腕を上げる。 痛みに口唇をかんで、けれど真っ直ぐ上を見上げ、 「よし!」 硬い岩壁に右手をかけた。 足は確実にそこへ進む。 町を抜け、森へ踏み入る、日没はすぐそこまで迫ってきていた。 「なあ、ホントに分かってんのかアイツ」 「まあ、多分……今は三蔵に任せるしかないでしょう」 「そうだけどよ……」 後ろをついてくる仲間の、ひそめた会話などまるで意に介さないように、前を行く三蔵の歩みは変わらない。 散歩に行こうと誘った悟空を、いつもの口調で袖にした。 実際、心配など欠片もしていなかった。 それは後ろの仲間も同じだ。 時折、心を震わせる姿なき声すら何の変化も無かった。 心に直接伝わる明るい声。 居てもいなくても、賑やかな奴だ。 共に散歩に出なくとも、悟空が見たもの感じたものを、三蔵は離れたところで共有していた。 けれど暫く時が経った頃。 「大分、陽も落ちてきましたけど、悟空遅いですね」 八戒の一言に、三蔵は読んでいた新聞を置いた。 愛煙に火を点けながら、少しだけ意識を集める。 ―――さ……ん、ぞ 一瞬捕まえた悟空の意識は、すぐに途切れた。 眉間に深い皺が一本。 「ちっ、あのバカが」 知らず声に出した言葉に、八戒が反応した。 「悟空に、何かありました?」 それには応えず、煙草を押し潰すと立ち上がる。 「三蔵?」 「猿を、迎えにいく」 だが部屋を出るとき、ついて来いとは言わなかった。 二人の行動などお見通しだ。 そして今、三人は森の奥を歩いていた。 確かな足取りで。 呼ばれていた。 空耳などではない。 自分を呼ぶその「声」は、音ではなく確かな「感触」があった。 昼となく夜となく。 読経の最中も、眠りにつく瞬間も…… 「くそったれっ」 向ける相手のいない悪態。 苛立ちというより焦燥を覚え、そんな時ふと幼い頃、今は亡き師と交わした言葉を思い出した。 ―――いつか、貴方にも聞こえるかもしれませんよ ―――その時は、探し出してブン殴ってやります そして三蔵はそれを実行に移した。 ただ、響いてくる「声」を頼りに歩いて、歩いて、たどり着いた深山の奥。 見つけた岩牢の昏い空間の中、自分を見上げたその顔があまりにも子供で、両の瞳は輝く一対の星のようだった。 殴るはずの拳を解いて差し伸べた手を、幼子は震えながら、けれど確かな力で握り返してきた。 ―――俺……三蔵のトコに居てもいいの? ―――嫌いな奴の世話をするほどお人好しじゃない 理不尽な迫害に、幾度となく傷ついた悟空の、涙をこらえる姿に思わず腕が伸びた。 抱きしめた身体は震えていて、溢れてしまった涙が三蔵の法衣を濡らし、それでも懸命に笑おうとする子供に、いつしか特別な想いを抱き始めた。 渦巻く想いに自らを持て余し、先へ進む事も後戻りもできない日々を―――互いに送っていたのだ。 ―――三蔵が……好き ―――ああ悟空、俺もだ 暗闇の中で触れ合った指先は熱く、心をしっかりと繋いだ。 「三蔵……あの、分かってるんですよね。 悟空の居場所」 宿を出てから一言も発しない最高僧の背後から、戸惑った色を隠さない八戒の問いかけ。 前を行く三蔵は漸く進む足を緩めた。 「居たぞ」 「えっ? あ、―――悟空!」 「おい、悟空!」 森の奥で探し当てた年下の仲間は、自分たちの呼びかけに驚いた刹那、いつもの笑顔を見せた。 「みんな……」 「大丈夫ですか? 悟空。 まさか、ここから落ちたんじゃ……」 駆け寄って見れば、服から覗く素肌のところどころに血が滲み、顔も何も泥だらけだ。 悟空は決まりが悪そうに鼻の頭をかいた。 「え……と、ゴメン。 心配かけて」 隠す事などできないのだ。 悟空は素直に謝罪の言葉を口にした。 「ったく。 お前の事だ、辺りばっかキョロキョロして、足踏み外したんだろ」 「ううっ」 悟浄の指摘に図星を指されて、子供のように口唇を尖らせた。 やり取りを苦笑いしながら眺めていた八戒が 「立てますか?」 と促すと、こくんと頷いて一人で立ち上がった。 「どこか痛むところは、ありますか?」 言葉を続けた八戒に、 「左腕」 と小さく呟いて、それから改めて三人仲間を見回した。 「探しに来てくれて、ありがと。 それと……心配かけてゴメン」 頭を下げた悟空に、 「ま、無事でよかったじゃねえか」 悟浄がわしゃわしゃと濃茶の髪をかき混ぜた。 「腕はどうですか? 悟空」 「うん、大丈夫みたいだ。 ありがとう、八戒」 無事に宿へ戻った悟空は、風呂に入り八戒に傷の手当をしてもらうと、ベッドで横になった。 「でも、これからはもっと気をつけてくださいね、悟空」 いつもの笑顔を少し真顔に変えた八戒の言葉に、悟空も神妙に顔を縦に振った。 「三蔵なんですよ」 「え?」 突然変わった話題に悟空が目を丸くする。 「貴方を見つけたのは三蔵なんです」 「三蔵が……」 翡翠の瞳を細めて八戒が語りだす。 「帰りが遅いと思っていたら、三蔵が急に立ち上がって 「迎えにいく」 って言うんです。 僕たちはただ、三蔵の後を追うだけでした」 悟空は驚いて声も出ない。 「あの人、一度も立ち止まらなかったんですよ。 まるで、悟空がどこに居るのか分かっているような歩き方でした」 「三蔵が、俺を……」 悟空の驚きに、八戒が笑みを深める。 「何があったって、貴方の声は三蔵に届いてるんですよ。 悟空」 言って八戒は優しく布団を叩いて眠りを促した。 潤んだ金瞳に笑みを乗せて、悟空はゆっくりとその目を閉じる。 「悟空寝てますから、あと頼みますね三蔵。 僕たち食事をしてきますから、貴方と悟空の食事は部屋へ持って来ますよ」 部屋へ戻ってきた八戒の一方的な提案に、けれど三蔵が 「ああ」 と応えたのは奇跡に近い。 それにニッコリと笑って、軽いショック状態の悟浄を半分引きずるように、八戒は部屋を後にした。 二人が出て行くと三蔵はそっと悟空の枕元へ歩み寄り、擦り傷だらけだの頬を起こさない様に、そっと包み込んだ。 「少しは成長しろ」 微かに囁いて、金鈷から覗く額へ口唇を寄せる。 言ってやりたいことは山ほどある。 ハリセンだって一度振り下ろすぐらいじゃ到底足りない。 まず、目が覚めたら一番に、 「いくつのガキだてめえは」 と一発だ。 だから、 「起きるまで、ここに居てやる。 そのアホ面で笑って見せろ」 出逢った頃から変わらない、ぶっきらぼうなその台詞は、悟空には伝わる三蔵の精一杯の優しさ。 「何度も探しにいくのは面倒くせえんだ。 ふらふら離れてんじゃねえよ」 気持ちよさそうに眠る、悟空の柔らかい髪を梳きながら、三蔵の口元がふっと上に持ち上がった。 ――― その「声」は万里を越えて、彼の元へ copyright(c)karing/Reincarnation おかげさまで、当サイトも8周年を迎える事ができました。 それもこれも、ヘタれな私をいつも励ましてくださる皆様のお陰です。 相変わらず遅筆で、皆様にもご迷惑をかけてばかりですが、この先も続けていきますので、よろしければお付き合いくださいませ。 そして、私が書いたモノが少しでも、皆様の中に何かを残せたなら、これほど嬉しい事はありません。 皆様、本当にありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いいたします。 2011/12/1 花淋 拝 |