|
三蔵と、喧嘩をした ————
memories of …
「猿に俺の過去を、とやかく言われる筋合いはねえ」
「三蔵の馬鹿!嫌い!!」
俺は、そのまま部屋を飛び出した。後ろで八戒が何か言ってたけど、振り返らずにそのまま宿を出た。
外はずっと雨が降っていたけど、構わずにとにかく走った。三蔵に俺の声が届かない所まで…それからゆっくりスピードが落ちて、でも足は止めなかった。弾む息を整えるように、歩を進めていくうちに落ち着いてきた頭で、どうしてこんな事になったんだっけと思い返した。
ここ二、三日やけに牛魔王の刺客が多かった。いい加減ウンザリで、疲れはたまるばっか。俺がそう思うくらいなんだから、三蔵はもっと疲れてるだろうと思った。もともと飯だってたくさん喰う方じゃないし、それに加えてこの雨だ。
俺だって気分がへこんでくる。三蔵は輪をかけて不機嫌だった。
雨の日はなるべく大人しくしていよう。そう思ってはいるけど、話しかけても返事もしてくれない三蔵に、なんかムカついて、思わず言っちゃったんだ。
「後ろ向いて考えてるのは、三蔵らしくない」
そう、俺が悪いんだ…
ずっとずっと前に起こった。三蔵の何かを変えてしまうくらい、悲しくて辛い思い出。
俺なんかが口を出せる事じゃないって、分かってたはずなのに。
「過去の無い、俺なんかが…」
声に出した途端、すごく悲しくなった。俺、何も持ってないんだ。辛い過去も、楽しい思いでも。
俺、駄目じゃん ————
悔しい…三蔵の悲しみを癒したいとか、そんな大それた事、自分に出来ないのは分かってた。だから、少しでも理解したいと思った。馬鹿と言われても、それくらいの事ならって…
でも、それすらも出来ないんだ、過去が無いから。
「馬鹿以下じゃん…」
「そんな事ないですよ」
完全に自分の世界に入っていた俺は、背後の声に驚いて、振り返る事も出来なかった。
そして頭の上に柔らかい感触。
「戻りましょう。こんなに濡れて、風邪でもひいたらどうするんですか」
「八戒…」
頭からすっぽりとかぶったタオルの端を握り締め、俺はとぼとぼと八戒の後に続いた。
「八戒、過去って忘れたい程、辛いもんなの…」
前を歩いていた八戒が、その言葉に足を止めて振り返るのが分かったけど、俺はタオルをかぶったまま顔を上げなかった。
「悟空、過去は辛いものばかりでは、ありませんよ。楽しい思い出だって、たくさんあります」
「でも、俺はいっこも持ってない」
そんな俺に、八戒は少し考えて、
「本当にそうですか」
と、言った。
俺は、思わず顔を上げたけど、八戒はもう前を向いて歩き出していた。
先の方に宿の明かりが見えて、誰かが立っている様だった。近付いてそれが誰か分かった途端、俺はぎゅっと自分の胸を掴んだ。
「さんぞ…」
入口のドアに凭れる様に、煙草を咥えた三蔵。隣には悟浄も居た。
「二人とも、心配してたんですよ」
そう言って、八戒は俺の頭からタオルを取って、ついと背中を押した。
一歩づつゆっくりと二人に近付いて、でも顔は見られなかった。俯いたまま、俺は三蔵に謝る。
「ごめん…なさい」
きっと、ハリセンが飛んでくる。俺は衝撃に堪えるべく、目をつぶった。
そして、頭に降りてきたのは、大きな手。顔を上げたらそのままその手が、頬まで降りてくる。
「三蔵……イタイ!イタタ」
思い切りほっぺたをつねられ、俺が悲鳴を上げると。ふんと鼻を鳴らして、中へ入ってしまう。
「さっさと、着替えろ。バカ猿」
その言葉だけを残して。
「素直じゃねえな〜さて、小猿ちゃんも戻ってきた事だし、部屋で一杯飲るか」
そう言って、悟浄も立ち去ってしまう。俺はつねられた頬を撫でながら、それを見送った。
「まったく、二人してこんなに吸殻撒いて」
八戒はぼやきながら屈みこむと、大量の吸殻を拾い始めた。
「八戒、おれやるよ」
一緒になって吸殻を拾い始めて、自分の中に何かが引っ掛かった。
覚えがある、この感じ…
「悟空?どうしました」
「以前にもあった、こんな事…」
何時だっけ…寺院に居た頃?
今日みたいに三蔵と喧嘩して、寺を飛び出した。でも、一人ぼっちになって、寂しくて腹が減って…三蔵、許してくれるかななんて思いながら…
そしたら、今みたいに山門に三蔵が立ってた。ごめんなさいって謝ったら、やっぱり降りてきたのは三蔵のおっきな手で…
「あの時も、吸殻たくさん落ちてて、拾ってこいって言った」
黙って俺の話に耳を傾けていた八戒は、
「それが、悟空にとっての過去じゃないですか。三蔵との」
そう言って、笑った。
「俺の…過去?思い出?」
その途端、鼻の奥がツンってなって、八戒の顔が滲んだ。
八戒は何も言わないで、ただ涙をタオルで拭ってくれた。
冷えた身体を風呂で暖めた俺は、三蔵の隣で八戒からホットミルクをもらった。三蔵と悟浄は何処で手に入れてたのか、琥珀色の火の水を飲んでて、あまり飲み過ぎないでくださいって、八戒に言われてる。
「ねえ悟空、まだありますか?思い出」
俺の隣でコーヒーを片手に、八戒が笑った。
「んー、何の話だ」
すかさず話に割って入ったのは悟浄、三蔵は興味が無いとばかりに、また新聞を広げていた。
「さっき、悟空から聞いたんです。悟空の過去」
「過去ぉ〜」
「ええ、三蔵と出逢った時からの事ですが、悟空にとっては立派な過去でしょう」
「ま、そう言えない事も無いな」
悟浄はニヤニヤしながら、きっと酔っ払ってんだ。どんな事があったか、この悟浄様に言ったんさい。とかって、俺にヘッドロックをかけてくる。
「やめろよ!ゴキ河童」
「何だよ、八戒には言えんのに、俺には言えねーのか」
お兄さんは泣いちゃうよ。なんて、かなり酔ってる。
「酔っ払いになんか、言えっか」
「まあまあ、悟空。じゃあ、一つだけ、今までで一番嬉しかった事はなんですか?」
八戒に言われて、今までの事を思い出す。
この旅を始めた時、八戒や悟浄と知り合った時、寺に居た時。
「あ……」
俺はある事を思い出して、そうしたら何だかすごく恥ずかしくなった。
「悟空?」
「なんだ、顔赤くして。そんなに恥ずかしい事されたのか、三蔵様に」
「死ね、河童」
紡がれた言葉は銃声にかき消された。
「三蔵、やめて下さい。悟浄あなたもです」
壁にあいた穴を見つめ、また仕事を増やしてとばかりに、八戒は大きなため息をついた。
「てめえも、言えねえ事なら、顔に出すな」
「そんなんじゃ…」
「なら、さっさと言っちまえ」
小さくなる俺に、イラついて三蔵はグラスの中身を一気に煽ると、煙草に手を伸ばした。
「言ったら、三蔵怒るかも」
「あ゛あ゛」
ちらりと三蔵を見た俺に、凶器の視線が送られる。
「三蔵、悟空を怖がらせても仕方ないでしょう。大丈夫ですよ、悟空」
「笑わない」
笑いませんよ。そんな八戒の笑顔に促され、俺は小声で言った。
「三蔵が…」
赤と緑の瞳が、紫暗に向けられる。
「三蔵が…俺を、見つけて…くれた事」
静まり返る室内。ふいに響いた音は、ドアが開いて誰かが出て行く足音。
「三蔵…怒った」
やっぱり、言うんじゃなかった。俺は、三蔵の出て行ったドアを見つめて、ため息をついた。
「悟空、三蔵は怒ったわけではありませんよ」
ほらと言って、今まで三蔵が座っていたとこを指差す。
「あ…」
そこには、煙草の灰が散らばっていた。
「照れ屋さんだからな〜三蔵様は」
悟浄は、何だか楽しそうだ。俺は慌てて三蔵を追いかける。
「あ、八戒…ありがとう」
「いいえ、おやすみなさい、悟空」
「うん、おやすみ八戒、悟浄」
「おお、がんばれよ」
がんばれって何?俺は、そっと隣のドアを開いた。
「三蔵…」
三蔵はベッドに足を投げ出して、やっぱり煙草を吸っていた。
俺は小さな声で、もう一度三蔵を呼んだ。
「寝るから、灯り消せ」
「あ、うん…」
言われた通りに部屋の明かりを落とすと、サイドテーブルのライトの灯りが、三蔵の顔を浮かび上がらせた。オレンジ色の灯りに反射する金糸は、普段より柔らかく見える。なにより、やっぱり三蔵は綺麗だと、思わずにはいられなかった。
俺は自分もベッドに入ろうと、三蔵の横を通り過ぎようとした。
「うわっ!さ、三蔵?」
いきなり腕をつかまれて、あっという間に俺は三蔵のベッドで、彼を見上げていた。
「ああいう事は、俺の前だけで言え」
一瞬、何を言われてるのか分からなくて、それから顔が熱くなるのを感じた。
「うん…」
ゆっくりと近付いてくる端正な顔を、何時までも見ていたと思ったけど、やっぱり恥ずかしくて、口唇が触れ合う間際に俺は、目を閉じた。
苦くて甘い三蔵の口唇。
何度も何度も口付けが送られて、俺は身体がふわふわ浮き上がるような感覚に襲われた。
「さんぞ…さん……三蔵」
名前を呼べば、広い胸に抱きしめられて、何だか泣きたくなった。
三蔵が、俺を見つけてくれた時から始まった、俺の過去。その日から昨日まで、今日からもずっと、俺は三蔵と一緒に居たい。
「猿頭じゃそれぐらいの時間しか、覚えていられねえだろ」
それって、三蔵の事以外は憶えとく必要が無いって事?
「うん…分かった」
俺は、背中に回した腕に力を入れて、それに応えた。
過去って辛い事ばっかりじゃないんだ。三蔵が俺を見つけてくれなかったら、分からなかった。

|