| 雨は嫌いだ…あの人が、自分を見てはくれないから。 自分では、あの人の心を、癒せないから… 雨は、自分がいかに無力なのかを、突きつける… 金環蝕 その日は、朝から音も無く雨が降っていた。当然、今日の出発は見合せとなり、一行は突然の自由な時間に、何をするでもなく別々に過ごす事となった。 三蔵は、朝食が済むと部屋に閉じこもり、八戒と悟浄は連れ立って買い物に出かけ、残された悟空は、三蔵とは別の部屋で一人、枕を抱えていた。 自分には、何も出来ない… 分かってはいても、辛かった、歯痒くて情けなくて…気が付けば枕には、幾つも染みが出来ていた。自分には、彼を呼んでいると言う自覚が全く無いが、三蔵曰くしつこいくらいに呼ぶのだと言う。だからこんな日は、せめても三蔵を呼ぶことが無いようにと、歯を食いしばった。 ベッドを出て、ベランダへ出れば鉛色の空から、幾筋もの銀糸が降りてくる。 「早く止んでくれよ…」 空を見上げ、冷たい雨を受けながら、悟空はじっとその場に立ち続けていた。 視線が、ずっと自分を追っていたのは、分かっていた。姿無き声が、自分を呼んでいたのも、聞こえていた。それら全てを拒絶したのは、自分。最後に視界の端に見たのは、迷子になった子供の様に、心細い目をした悟空の姿。 火の点いた煙草は、灰皿の中で細い煙を立ち上らせ、三蔵はただ外を眺めていた。嫌いだという雨を… 声は、聞こえない。 「ただいま戻りました。あれ、三蔵一人ですか?悟空は」 続けざまの質問に、三蔵が息を吸い込んだのとほぼ同時に、後ろで勢いよく扉が開いた。 「八戒、タオルかせ!」 「どうしたんですか」 タオルを貸せと言った悟浄は、自分もゴソゴソと荷物をひっくり返す。 「猿の野郎ずぶ濡れで、ベランダに居やがった」 その言葉にひくりと三蔵の肩が揺れた。八戒はバスタオルを悟浄に渡し、着替えを用意するからあなたは悟空の所へと、急かした。引っ掴むようにバスタオルを持った悟浄は、冷たい目で三蔵を一瞥すると、何も言わずに部屋を出て行った。 八戒は、悟空の着替えを用意すると、動こうとしない三蔵の前に立ち、口を開いた。 「以前にも、あなたに言いましたが、もう一度言いますよ。言葉にしなければ、伝わらない事が在るんです」 それだけを告げると、答えも聞かずに扉の外へ消えた。 隣へ行くと既に悟空は悟浄によって、バスタオルに包まり八戒を見とめると、ばつの悪そうな顔を見せた。 「悟空、何をしてたんですか」 「え…と、雨早く、止まないかな〜って思ってたら」 分かりきっている答えには、苦笑するしかない。八戒は持ってきた着替えをベッドに置き、まだ水分を含んだ茶色の頭を優しく、拭き始めた。 「そういう事は、部屋の中で考えてくださいね」 「うん…ごめん」 素直に謝る悟空を見て、少しは見習って欲しいものだと、隣の分からず屋を思い浮かべた。 「お風呂に入って、身体を温めないと…」 「ん、いいよ…も寝る」 「寝るって、悟空食事は」 「いい、なんか…疲れちゃった」 力のないその声に、八戒も悟浄も口唇を噛む。何もしてやれない歯痒さと同時に、三蔵に対しての怒りが湧き上がるのは当然の事。 「ったく、三蔵の奴…」 ポツリと漏らした悟浄の呟きが聞こえたのか、悟空は少し、はにかんだ様な笑みを浮かべると、 「さんきゅ、悟浄。でも三蔵の所為じゃないから、俺が勝手に煮詰まっただけだからさ…」 どこまでも、三蔵を最優先とする悟空の態度に、悟浄のそれは少なからず、嫉妬だったのかもしれない。 悟空の居ない静かな食事の席で、彼は唐突に切り出した。 「お前、少しは悟空の事も、考えてやれよ」 その言葉に、三蔵は挑むような目を向けた。 「何が言いたい」 「あんなお前、絶対悟空よりガキだぞ、雨の日は」 「悟浄」 八戒の静止を、無視するかの様に悟浄は、更に続けた。 「てめえの過去なんざ興味はねえけどな、雨降るたんびシケた面されんのは、我慢なんねーんだよ。その所為で、猿がへこんでんのも、うぜぇだけだ」 一息でそれだけを言うと、気が済んだのか椅子の背に身体を預け、紫煙を吐き出した。 三蔵は一言も話さず、何を考えているかも分からなかったが、追い討ちをかけるような八戒の言葉に、僅かに目を剥いた。 「悟空の事は、あなたに任せますからね。たまには保護者としての、責務を果たしてください」 そこまで言われて、三蔵は不機嫌なオーラを纏いながら、渋々腰を上げた。言い返さないところを見ると、少なからず非は自分にあるのだと、自覚しているらしい。 立ち去るその背を見送りながら、素直じゃねーよなと言う悟浄に、 「甘えてるだけですよ」 と、聞き様によってはかなり手厳しい一言を、八戒は言い放った。 静かに扉が開いて、滑り込むように人影が入ってきた。 足音を立てずに、ベッドで眠る悟空の傍まで来て、三蔵は僅かに顔をしかめた。そっと首筋に手を当てると、普段よりも体が熱い事を伝えてくる。 「悟空…」 目を覚ます気配は無い。三蔵はベッドの端に腰を下ろし、うっすらと汗をかいている、白い頬を包み込んだ。 『言葉にしなければ、伝わらない…』 そんな事は、百も承知だ。しないのは、この子を自分に縛り付けたくないから。それで無くとも、事あるごとにこの子供は、ずっと自分の傍に居ると、宣(のたま)うのだから。 傍に居たいと思うのは、きっと自分の方。誰の目にも触れぬように、閉じ込めておきたい程に、あの強烈な金に惹かれたのだ。 そして、己の醜い独占欲に気付いた時、吐き気がする程の嫌悪を覚えた。今は理性が勝っているだけ… 大切だから、縛り付けたくない。 必要だから、傍におきたい。 そんな相反する想いを、自分は何時から抱えているのだろう。 色を失った悟空の顔を、三蔵はただぼんやりと見つめていた。何時までも… 翌朝、三蔵は目覚めて直ぐ、悟空の元へ行き熱が下がっている事に、ほっと息をついた。が、何かが違うような妙な違和感を感じた。目を凝らすように悟空を伺い、昨夜から彼の寝姿が変わらない事に気付いた。いくら体調が悪くても、悟空に限って寝返りすら打たないとは、考えにくい。 そうして三蔵は自分の背を、冷たいものが落ちていくのを、感じた。 「悟空。目を覚ませ、悟空!」 肩を掴んで揺り動かすが、目覚める気配は無かった。頬を張っても、その表情一つ変えることなく、悟空は眠り続けていた。 異常は八戒と悟浄にも、告げられた。 「目を覚まさないって、どういう事ですか」 「さあな、分かれば苦労はしねえ」 眠り続ける悟空の枕元で、三人は黙り込んだ。こうなる原因が思いつかない、ここ数日は敵の襲来も無かった、おかしなものを食べた憶えも無い。 一番不思議なのは、何故悟空一人だけが眠り続けるのか… そんな事言ってないで、今はコイツを起こすのが先だろ。そう言いながら、悟浄が悟空の鼻に手を伸ばす。 「おーい、悟空。いー加減、目ぇさま(バチッ)うわっ、何だ」 「悟浄!」 「な、何だ今の…」 悟空に触れた途端、悟浄の手が火花を上げた様に見えて、八戒は悟空と彼を交互に見た。悟浄は自分の指先を凝視していたが、別段傷を負った様でも無い。 「拒絶…してるんでしょうか」 八戒の言葉に、悟浄が顔を顰める。 「あ゙ー拒絶ぅ?何だそれ」 「僕にも、よく分かりませんが…三蔵は、どう思いますか?」 「こいつに現実逃避する程の、頭があるとは思えんがな…」 先程から、三蔵の視線は悟空に固定されたまま、少しの変化も見逃さないように。彼らに心当たりが無いとは言ったが、三蔵には悟空のこうなった原因が、自分にあるのだとどこか漠然とした、思いがあった。 雨の日の自分。 周りのもの全て、否、自分すらも否定するその日を、悟空が恐れていたのは知っている。それでも、何もしなかったのは、三蔵の自惚れ。悟空が、自分を拒絶するはずが無いという… 「どうすんだよ、このままってわけには、いかねーだろ」 「ええ…」 途方に暮れた二人を横目に、三蔵は僅かに口角を上げた。 「二度も、俺に手間かけさせるたぁ、いい度胸じゃねえか、猿」 「三蔵?」 どこか楽しげな三蔵の様子に、八戒は不安げな目を向ける。 「八戒、悟浄。部屋出てろ」 「出ろって、何をする気ですか?」 「叩き起こす、俺のやり方で」 二人を見て、三蔵はにやりと笑った。 「分かりました」 彼がそう言ったからには、聞くしかない。八戒はため息をついて納得のいかない悟浄を、引きずるようにして扉に手をかけた。出て行くとき、三蔵を盗み見た八戒の目に映ったのは、陽炎の様に揺らめいた三蔵の姿。 何も無い闇。上も下も分からず、自分の足音すらも聞こえない。 三蔵はその中を歩き出す。どこへ向かうのか、何があるのか、けれどその足は、はっきりとした意思を持って、動いていた。 そして、ぼんやりと浮かび上がる光。それはとても儚くて、風が吹けば消えてしまいそうなくらい、弱々しいものだった。 「おい…」 ピクっと小さな肩が揺れた、立てた膝に埋めるようにして伏せられていた顔が、ゆっくりと上がり声の主を見て、大きな瞳がなお大きく開かれる 「そんなとこに隠れてねえで、出てきやがれ」 「なんで…」 「なんでだと、そりゃこっちの台詞だ、さっさと起きろ!」 起きろ、の言葉に悟空の瞳が震えた。光の中と外、二人は朧げなそれでいて、そこに確実に存在する壁を隔てて、見つめ合った。 「悟空…」 「いやだ…」 名前を呼んだのと拒絶の言葉は、同時だった。三蔵は再び彼を呼んだ、その声音は労わるように優しく、悟空は縋ってしまいそうなその声に、自ら耳を塞いだ。 「今さら…優しくすんなよ!へい、き…くせに…俺…居なく…」 ぱたぱたと溢れる涙に、最後の言葉は消え、頬を伝うそれは止まる事を忘れた。 声なき声が三蔵を責める。俺が居なくても、三蔵は平気なくせに…と。 雨の日に三蔵の機嫌が悪い事は、昨日今日始まったわけではない。それは悟空だって、承知している、でも、彼には限界だったのだ。三蔵の拒絶に耐えられなくなって、逃げた。 そして三蔵にも分かっていた、悟空がどんなに自分を心配しているのか。 いっそ全てを話して、縋ってしまおうか、そう思った事も一度や二度ではない。けれど、全てを悟空に預けてしまうのは、恐ろしかった。 妖怪の悟空と、人間である自分。 残される者の痛みを知っているから、彼にそんな思いを、させたくはなかった。 心優しき養い子を、自分が滅した後まで、縛り付けたくはなかった。それでも、居なくてもいいなどと思った事は、ただの一度も無い。 そして、三蔵は、覚悟を決めた。 「バカ猿、俺がいつてめえに居なくてもいいなんて、言った」 三蔵は膝を折って、悟空と同じ目線に降りてくる。思っていたよりも近くで聞こえたその声に、悟空が顔を上げた。その、涙に濡れた金の瞳を、真っ直ぐ見つめて三蔵は続けた。 「本当にいらねえモンなら、あの時…殺してたさ」 「さんぞう…」 望むなら、くれてやる。だが、始末はてめえでつけろ、そう告げた三蔵の、言葉の意味が分からず、悟空は目を瞬かせて首を傾げた。 「一度しか言わねえから、よぉく聞いてろよ、猿」 その真摯な声に、悟空は黙って頷いた。涙は止まっている… 「悟空——— お前が、必要だ…俺の傍に、居ろ」 息をするのも忘れた。耳から入った言葉は、ゆっくりと全身を巡り、最後に涙となって零れ落ちた。 「さんぞぉ…」 搾り出すような声、それに答えるように三蔵が手を差し出すと、悟空を取り巻いていた壁が霧のように消えた。 「三蔵…さん…ぞ」 ずっと求めていた温もり。決して離すまいと、悟空の手に力が入れば、三蔵もまた抱きしめる腕を緩める事は無かった。 「帰るぞ」 「うん」 そして、光の渦に飲み込まれる様に、二人の姿は小さくなっていった。 「悟空、大丈夫ですか」 深い翡翠と、濃い緋色、二対の瞳が心配そうに覗き込んでいる。悟空は瞬間、自分の身に起こった事が把握できず、困ったように金の瞳を瞬かせた。 「悟空?」 どこかぼんやりした悟空の様子に、二人の顔が曇る。だが、悟空の口をついた言葉に、その表情は、なんとも複雑なそれに変わる。 「三蔵…は?」 三蔵、ですか? おい、目覚めた途端、これかよ。 二人の心の声など、聞こえない悟空は首を巡らせて、彼を探す。八戒はそんないつもと変わりない悟空に、少しだけ理不尽な思いを抱きながらも、 「三蔵なら心配要りませんよ、眠ってるだけです」 と、隣のベッドが見えるように身体をずらした。 「僕らも外に出ていたので、三蔵が何をしたのか分かりませんが、どうやらかなりの法力を使ったようです」 八戒たちが部屋へ入った時、三蔵は悟空のベッドに突っ伏す様にして、眠っていた。悟浄が、触れることも出来なかった、悟空の手を握ったまま。 そして、八戒のその説明に付け足すように、悟浄が口を開いた。 「だからって、お前が気にする事じゃねえぜ、あれは三蔵の意思だからな」 「三蔵の…意思?」 「そ、義務じゃねえ、意思だ」 意思の意味を考える。義務じゃなく、意思… 『お前が必要だ、傍に居ろ』 それが…三蔵の意思。 「悟空?」 「なんだ、また寝ちまったのか、大丈夫だろうな今度は」 「大丈夫ですよ、ほら」 穏やかな寝顔に浮かぶ、華の様な微笑。悟浄は、ため息ともつかぬ息を一つついて、背後を伺った。その心中で、こんな高慢ちきのどこがいいんだと、一人ごちながら。 「果報者ですよね」 悟浄の呟きが聞こえた様に、八戒が笑みを漏らし、全くだとそれに相槌を打ちながら、二人は部屋をあとにした。 静かになった部屋に、衣擦れの音がしてゆっくりとその人が起き上がるのは、少し先の事。 眩しい…目を閉じているはずなのに、瞼の奥がキラキラする。そして目を開いた途端、飛び込んできたのは眩いほどの金と、自分を映すどんな宝石よりも美しい紫暗。 「さんぞう…」 返事は無い、頬を撫でる大きな手と、少しだけ細められた瞳が、全てを語っていた。 その手に自分のそれを重ね、悟空は目を閉じた。 「三蔵…俺、バカだから信じちゃうよ。三蔵の…言葉」 やはり返事は無く、悟空はくすりと笑って目を開けた。 あ、笑ってる…三蔵が。 それはきっと、悟空だけが見る事を許された、彼の真の顔。 「三蔵」 「一度だけだと、言ったはずだ」 「うん…傍に、居るよ。ずっと」 雨は、好きじゃないけど…もう、怖くない。 「三蔵…一緒に、居ても…いい?」 黙ってソファの横が示される。悟空は嬉しそうに駆けていくと、そこへは座らずに三蔵の足元に腰を下ろした。彼の目が新聞から悟空に移り、悟空はそれにへへと笑って、三蔵の膝にちょこんと頭を乗せた。 降りてきた手が、茶色の髪を愛しそうに梳けば、その心地よさに目を閉じる。 雨の音は、もう聞こえない。
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使用素材 背景【妙の宴】様