齢15の悩み
「三蔵、起きろよ!遅刻するぞ、昨日もギリギリだって、八戒が言ってたんだからな」 すっぽりと布団を被ったその塊に、よく通る子どもの声が、耳に痛い。 「うるせ…授業に、間に合えばいいんだろ」 丸まったそのままの形で、くぐもった声がそう告げると、少年はゆさゆさと、塊を揺さぶった。 「ダメだよ、せーとかいちょーがだらしないと、せーとに示しがつかないって、八戒がゆってたもん」 そう言って、布団を引き剥がすという、実力行使に出た。
離せ、ヤダの押し問答の末、少年はふと思い出したかの様に手を止め、三蔵はここぞとばかりに、布団を奪取するとゴロリと横になった。 その頭の横に影が落ちる。キシっとベッドが小さく音を立てた。 「さんぞ、起きて」
「——っ!」 耳を擽る囁きに、跳ね起きた三蔵は、屈託無く笑う悟空を睨みつけた。 「…の、バカ猿ーっ!!」 「いってー!」 勢いよく振り下ろされたハリセンは、悟空の頭を直撃し、少年は目に涙をためて三蔵を睨んだ。 「何だよ、三蔵が起きないのが悪いんだろ」 「起こし方に問題があんだっ!」
あんな甘えるような声で囁かれては、ある意味別の場所が起きてしまう。三蔵は、すでにそういうお年頃なのだ。 「だって悟浄が、どうしても起きてくれないなら、やってみろって言ったから…」 あのヤロー、ぜってーコロス!そんな、物騒な誓いを立てていると、目の前の子供は、上目遣いに三蔵を見上げた。 「三蔵…怒ったの」 「別に…」 漸く出たこの一言に、悟空は安心した様に笑った。そして、自分の役目は終わったとばかりに、入ってきた窓に足をかけた。 「悟空」 「何?」 自分を呼んだ三蔵を振り返ると、不機嫌な紫の瞳とぶつかった。 「あんな起こし方、俺以外の奴にやるんじゃねえぞ」 あっけに取られたが、次の瞬間ひまわりの笑顔が咲いた。 悟空が出て行った窓を、三蔵は暫く眺めた後、ポツリと呟いた。
「身がもたねえ…」
「おはようございます三蔵、今日は余裕がありますね」 登校してすぐ、生徒会室に顔を出せば、人のいい笑顔に出迎えられた。が、三蔵はそれにも、別段表情を変えずに、 「おい、赤ゴキは何処だ」 地の底を這うような、おおよそ歳とはかけ離れた声を上げた。 「悟浄ですか、今日はまだここへは来てないですよ」 何かありましたかと、問い掛ける目をやり過ごし、三蔵は舌を鳴らしてそこを後にした。 「いいですよ」 完全に三蔵の気配が消えたのを確認して、残されたひとりが誰に向かうとも無く声を掛けると、窓の外に二本の足が伸びた。器用に身体を返して部屋へ入ると、前髪をかき上げて、にやりと笑った。 「あの様子じゃ、悟空の奴やりやがったな」 「今度は何を悟空に吹き込んだんですか」
呆れたように相手を見ながらも、彼の服についたほこりを払ってやるところは、仲のいい恋人同士そのまま。 「ま、ちょっとな」 悪戯っ子のようなその笑顔に、彼八戒は 「あまり悟空にちょっかい出すと、三蔵が黙ってませんよ」
と、釘を刺した。
いわれて悟浄は、はいはいと生返事を返しながら、先日年下の友人と交わした会話を思い出していた。
『いいか悟空、三蔵に何か言うときは、お願いモードで、言えよ』
『お願いモード?』
悟浄が教えたお願いモードと言うのは、「三蔵の服を握って、下から見上げて、モノを言う」と言う方法だが、悟空にはそれがもたらす弊害に、気付いてはいない。だからこそ、悟浄はこの密かな楽しみを止められないでいた。
八戒と悟浄は三蔵と同学年で、ある事をきっかけに、悟空も付き合うようになった。彼らは、悟空を弟の様に可愛がったが、実を言えば三蔵は、それが面白くなかった。
そんな三蔵に気付いているのかいないのか、悟浄はたびたび悟空にこの様な事を教え、三蔵の反応を楽しんでいた。
その日三蔵は、一日不機嫌だった。もっとも八戒や悟浄に言わせれば、不機嫌じゃない日なんて、あったためしが無い。これがいつもの彼だと、即座に返ってくる筈だ。が、いつにも増して今日は、不機嫌なのだ。 原因は勿論、今朝の悟空の行動だ。 『さんぞ…起きて』 少し高い、甘えるような声を思い出すと、背中がぞくりと震える。
—— 冗談じゃねえ、あんなガキに… 自分の思考に悪態を吐きながら、渡り廊下を生徒会室へ向かう。校庭に面したところで、突如三蔵の視界が暗転した。 遠くで教師や生徒の声を聞きながら、三蔵の意識は次第に、深淵へ落ちていった。
ぼんやりとした視界の中、見覚えのある天井が目に付いた。
カチャリと小さな音がして、人の気配が近付いてくる。 「三蔵?」 覗き込む様にして現れたのは、人のいい三日月眉の青年。 「大丈夫ですか?」 「なんで、お前…いや、俺がここで寝てる」 記憶の糸を手繰れば、学校の渡り廊下から先の覚えが無い。自分は生徒会室へ向かっていたはずだ。 「気を失ったんですよ。頭にボールを受けて」
三蔵が校庭に面した渡り廊下を歩いている時、校庭でふざけていた生徒が蹴っ飛ばした、サッカーボールを喰らったのだと、八戒は言った。 言われれば頭に鈍痛が残っている。 「先生が車で送ってくれたんです。僕は一応、付き添いという事で、勝手にカバンから鍵出しちゃいましたけど」 「いや…悪かったな」 そう言って、身を起こした途端、目の前がぐにゃりと歪んだ。 「三蔵!」 手を出した八戒に支えられ、再びベッドへ横になる。 「くそっ」
思うようにならない身体に悪態を吐いて、それは本当に無意識だったのだが、視線が窓へ移る。 「…ご、くう」
振り返った八戒と、三蔵を少年は窓の外からじっと見つめていた。 弾かれた様に悟空が動いたのは、ベッドの端に腰掛けていた八戒が、立ち上がった瞬間。 窓に置いた手を離すと、そのまま自分の家へ消えた。 「誤解…されましたね」
八戒の言葉に、三蔵の頭に別に痛みが生まれた。
どうして戻って来てしまったのだろう。悟空は、自分の行動に途惑っていた。 学校から帰ったら、窓から八戒の姿が見えた。自分よりも三蔵が早く帰って来る事等、滅多に無い事だから嬉しくて、窓を越えようと思った。 そして二人を目撃する。 「八戒と…抱き合ってた」
幼い悟空の目には、そう映ってしまったのだ。その途端、胸がぎゅっと締め付けられたように痛くなり、じわりと涙が浮かんだ。 「俺…どうしちゃったんだろう」
襲ってくる感情についていけなくて、悟空は部屋の片隅で蹲った。 「助けて…何だよ、これ…」
その時、部屋の窓が開き、ゆっくりと入ってきたその人に、悟空は濡れた瞳を向けた。
「さんぞ…」
背中に陽の光を背負って、自分の前に立つ人を、悟空はただ見上げていた。
三蔵は何も言わない。それが悟空には耐えられなくて、上げていた顔を下へ落とした。途端にぱたぱたと、じゅうたんの上に幾つも丸いシミが出来る。 自分の涙だと悟空が自覚する前に、そのまろやかな頬が、三蔵の手に包み込まれる。 「何で泣くんだ」 両の親指でそっと涙を拭ってやれば、蜂蜜色の瞳が揺れた。 「わか…な、い」
それは本当の事だった。まるで栓が壊れてしまったかのように涙が止まらず、悟空自身が戸惑いを隠せないでいるのだ。
そして、三蔵には悟空の涙の理由が、朧げに分かっていた。ただ、それがあまりに自分に都合がいいように思えて、口に出来ないでいる。 そして三蔵のとった行動は、更に悟空を困らせた。
涙の溜まった眦に、その口唇を押し付けたのだ。 「さんぞっ!」 驚愕に裏返った悟空の声に、三蔵がくっと喉の奥で笑う。そして、胡桃色の頭をくしゃりと撫でた。 「泣くな」
涙は止まっている。悟空の顔はゆでだこよろしく朱に染まり、大きな瞳は瞬きを忘れた。
三蔵はその額にも、そっとキスを落として、部屋を出て行った。 それからどのくらいの時間が経っただろう、漸く現実へ戻ってきた悟空が、ぽつりと漏らした。
「さんぞーと、ちゅうした…」
翌朝、悟空は三蔵の部屋に行けないでいた。
昨日の事を思い出すと、どうしようもなく苦しくなって、胸の辺りがずきんと痛くなるのだ。
ただその痛みが八戒と三蔵を見た時の痛みと、似ているような気もするし、違うような気もして、大いに悟空を悩ませた。
「俺…ビョーキになったのかな…」
日頃の明るさはなりを潜め、俯きながらランドセルを背負って玄関を出ると、今一番会いたくない人と出会った。 「さんぞ…」 ああ、まただ。苦しくて、イタイ。三蔵の顔が見られない… 結局、悟空は逃げるようにして、三蔵の前から走り出した。
小さな身体が自分の前から、遠ざかっていくのを黙って見ていた三蔵は、悟空の姿が完全に見えなくなると、くっと喉を鳴らした。 滅多に見せない笑みを浮かべ、自分も学校への道を歩き出した。
八戒が小さな友人の訪問を受けたのは、三蔵の部屋で起こった一件の次の日だった。 「悟空、昨日の事はあなたの誤解ですよ」
そう言って八戒は、昨日の出来事を話してくれた。 「そうだったの…ごめんな、八戒」 「いいんですよ。それよりも、悟空の話は何ですか?」
公園のベンチに腰掛け、手には八戒に買ってもらったジュースを持っている。が、俯いて一向に話が始まらない。
それでも、持ち前の人柄で八戒は、悟空が話し出すのを待っていた。
そして、悟空が呟いた言葉に、八戒は目を丸くした後、小さな忍び笑いを漏らした。 「八戒…おれ、ビョーキになったのかも」
その一言で、八戒は全てを悟ったのだ。
悟空の言葉で全てを悟った八戒は、彼の頭をぽんぽんと叩いて、
「大丈夫ですよ悟空、それは病気じゃありませんから」
と、笑った。 「でも…俺おかしいんだ、三蔵の顔見ると、この辺がぎゅってなって」
そう言って、自分の胸を押さえる悟空を、ことさら優しい眼差しで見つめると八戒は続けた。 「病気じゃないですけど、悟空のそれは三蔵にしか、治せないんです」
えっ、と顔を上げる悟空に、八戒はそっと顔を寄せた。
耳元で何かを囁かれて、悟空の頬が見る間に朱に染まる。 「いいですか?」 「う、うん…」
茹で蛸のようなその顔で、こくんと頷く。その時だった。 「何やってんだ、悟空」
慌てて口元を押さえたのは、本当に口から心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど、驚いたから。 「さんぞう…」
声の主は、不機嫌を顔に張り付かせたまま、そこに立っていた。
「何してんだ」 いつもより低いその声に、悟空が縮こまると、 「僕が誘ったんですよ」 八戒が、庇うように助け舟を出す。三蔵の片眉がひくりと上がった。それを見た悟空が、更に小さくなると、その目の前にすっと手が伸びる。 「帰るぞ、悟空」 「えっ」 驚いて顔を上げると、相変わらず不機嫌な紫の瞳が在った。悟空は、恐る恐る手を差し出す、 「八戒、チビに余計な事吹き込むんじゃねえ。そこに隠れてる河童もだ」
冷たく言い放ち、悟空の手を引いて歩き出した。 「あ、八戒。ジュースありがと」 首だけをめぐらせて、悟空は八戒に礼を言った。 「どういたしまして」 がんばって。最後の言葉は音にはならず、それを目で聞いた悟空も、こくっとうなずき返す。 「小猿ちゃんに何言ったんだ?八戒」 茂みから現れた悟浄は、八戒の隣に立つと、物凄い勢いで遠ざかる二人の後ろ姿を、楽しそうに眺めていた。 「ナイショですよ」
八戒の笑みを含んだ声だけが、青い空に吸い込まれていった。
自分の手を引いてずんずんと歩く、三蔵の背中を見ながら、悟空は困っていた。 八戒は、あんな事言ったけど、どうやってお願いすればいいんだよ。 『いいですか悟空、三蔵にぎゅってしてってお願いするんです。そうすれば悟空のぎゅっも、治りますよ』 相変わらず、前を行く隣家の兄は、黙ったまま。どうやって声を掛けていいのかも、悟空には分からなかった。 その内にとうとう家まで辿り付き、そこで初めて三蔵は悟空を振り返った。
「八戒と何話してた」 「…ジュース…買ってもらった、だけだよ」 「それだけじゃねえだろ!」
カッとなって叫んだそれは、悟空を怯えさせるには十分で、大きな金瞳が見る間に潤み始めた。 「―っ」 その時、三蔵は自分の中に湧き上がった感情の名前を知った。 悟空に感じた苛立ち、八戒に感じた怒り。 「嫉妬」と言う名のそれは、悟空に対する三蔵の気持ちを、決定付けるには十分だった。
「さんぞ…怒った、の…ヒック」 しゃくりあげる悟空に我に返って、三蔵は逃げるように自分の家へ入ってしまった。
部屋へ入ると、三蔵はカバンを投げつけた。 悟空の泣き顔が頭から離れず、苦いものが込み上げてくる。 「くそっ」
何故、こんなにも腹が立つのか…それが「嫉妬」だという事は、隠しようの無い事実だ。そして悟空に抱いた感情も… 「あんなガキに…」
それも男に…
そうだとしても、自分は悟空が好きなのだと、自嘲的な笑みが浮かんだ。と同時に、置き去りにした悟空が気になりだした。 そして三蔵は、悟空がいつもそうするように、窓へ手を掛けた。
膝を抱えて泣く子供の姿に、胸が痛んだ。 しゃくりあげながら聞こえてくるのは、
「さんぞ…ヒック…きらわ、れ…った…ふぇ」 ため息が零れた。そして口をついたのは、 「誰が嫌いだって言った」 やはり、キツイ一言だった。 「さん、ぞ…」 涙に濡れた蜂蜜色の瞳が、不安げに三蔵を見上げ、彼はその頬に手を伸ばした。 「いつ、俺がお前を嫌った」 涙を拭ってやりながら、その金瞳を覗き込んだ。
「だって…おれ…ふぇ…お、れ…」 溢れる涙は三蔵の手を濡らし、捨てられた子犬の様な瞳で、彼を見上げる。 泣きすぎて真っ赤になった目元が痛々しくて、三蔵は口唇を寄せた。 「もう、泣くな…」 耳元に囁かれ、悟空の身体がひくんと身じろいだ。三蔵はそのまま、小さな悟空をしっかりと抱き寄せた。 「さ、んぞ…」 「お前に八つ当たりしただけだ」
悪いのはお前じゃねえ。そう言って、そっと背中を撫でる。これ以上は隠せない、自分はそれほど忍耐強くないのだ。今働いているのは、悟空を怯えさせたくないという理性だけだ。だが、子供の一言で、その決意は露と消える。 「さんぞー、スキ」 「ごくう?」
「俺ね…三蔵がスキ、なの…それで三蔵の事考えると、ぎゅってなって…そしたら八戒が、それは三蔵にぎゅってしてもらうと治るってゆったんだ」 その言葉に、三蔵の眉がひくりと引きつる。
「だから俺、もっと三蔵にぎゅってしてもらいたい。ダメ?」 潤んだ蜂蜜色が、強請るように自分に向けられる。そんな瞳をされて、否といえる奴がいるなら、会ってみたいものだと、三蔵は思わずにいられなかった。
同時にほくそ笑んだのは、たとえ五年でも少年よりも長く生きている経験から。 「悟空、それを俺以外の奴がやろうとしたら、ぶっ飛ばして逃げて来い。いいな」 「三蔵以外は、ダメなの?」 「そうだ、俺以外の奴がやっても、効き目はねえ」 悟空は、神妙な顔つきで頷いた。
しかし、自分のこの一言が更なる悲劇を生む結果となる事に、三蔵はこの後激しく後悔するのだ。 「あとね、もイッこあるんだけど…」 言いにくそうな悟空を、無言で促すと、真っ赤な顔でしどろもどろに告げた。 「また、さっきみたいにちゅうって、してくれる?」 「な、に…」 悟空が言うには、「ぎゅう」と「ちゅう」で痛いのが、逃げていくというのだ。 目の前がくらりとした。態とやっている訳ではない分、始末が悪い。しかし、ここでダメだと言えば、泣き出すのは火を見るより明らかで。三蔵に残された選択肢は、一つしか無かった。 「……分かった」 「うん!へへ、三蔵大好き!」
自分が蒔いた種とはいえ、三蔵少年の苦難は、更に厳しく続いていくのだった。

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