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笑顔が早く、見たいから…
最初に見えたのは、白い天井と差し込む陽の光。
聞こえて来るのは、微かな子供の声、鳥の囀り。最後は扉が開く音。
忍ぶような足音、きしりと軋むベッド。耳から入る音に、何の反応も示さなかった身体が、その途端ぜんまい仕掛けの人形の様に、ぎこちない視線を向けた。紫暗と金が絡んだ瞬間に…
「どうした?」
先に声を掛けたのは、自分の倍以上ある蜂蜜色の瞳が、不安げに揺れていたから。一秒でも早くそれを拭ってやりたくて…それでも足りずに、白い頬を包み込む。伝わってくるのは、普段よりもはるかに高い熱。僅かに眉を顰め、
「まだ高いな…」
辛いか。と言う言葉は飲み込んだ。辛くないはずが無い、それを証拠に頭に響く「声」は、はっきりと泣いていた。
「さ……ぞ」
悟空のそれは音にはならずに、熱い吐息だけが零れた。湧き上がった涙は、怯え以外の何者でもない。
「三日も眠ってたからな、喉が張り付いちまっただけだ」
その言葉に頷いてはいたが、滲む涙は細く糸を紡いだ。
三蔵は小さく嘆息して、サイドテーブルに置いてある水差しから、コップへと注いだそれを自ら口に含んだ。一連の動きを追っていた悟空は、三蔵が何をするのかを理解すると、うっすらと頬を染めたが、大人しく目を閉じた。
ゆっくりと重なる口唇はひんやりと冷たく、小さく開いたそこから、少しずつ流れ込んでくる水が、静かに悟空の喉を潤した。
三度目にそれが離れると、注意していなければ聞き逃してしまうほどの声で、三蔵の名が呼ばれた。
答える代わりに、濡れた口唇をなぞるように、指を滑らせた。
「ごめ…な、さい…」
言葉と共に伏せられた眦から、ついと涙が一筋零れた。
こんな時まで。思わずにはいられない、辛いのは自分の方だというのに、この養い子の中にあるのは、自分が西への足を止めたという罪悪感だけ。
慰める言葉は幾つもある。けれど何を言ったところで、悟空を苛む霧が晴れない事を、三蔵も知っている。ならばと、
「そう思うのなら、さっさと治せ」
変わらぬ口調で告げてやれば、悟空は泣き笑いのような顔で、こくんと頷くのだった。
そして、もぞもぞと布団の中から出てきたその手が、枕元に腰を下ろした三蔵の法衣を握る。まだ成長途中の悟空は、男であっても体つきは細い。伸びた手が熱の為に更に痩せたように見えて、三蔵は思わず自分の手を彼に重ね合わせた。
「三蔵?」
普段からは考えられない三蔵の行動に、悟空の目が困惑を浮かび上がらせる。それを苦笑交じりで見つめ、
「もう少し寝ろ…握っててやるから」
つい、そんな甘い言葉が出たのは、八戒の顔が頭を過ぎったからだ。
『こういう時の悟空は、人一倍周囲に気を使います。その辺のところを、汲み取って上げてくださいね』
言外に甘えさせてやれと迫った翡翠の青年は、今頃この子供の為の病人食に腕を振るっているのだろう。
ぼんやりとそんな事を考えた。
「三蔵?どうしたんだ」
悟空の声にゆっくりと視点が戻って、蜂蜜色の大きな瞳と出逢う。白い顔を更に心配に染めて、自分を見つめる養い子。
共に生きるようになった八年余りの時間の中で、いつの間にか悟空が自分にとって、どれほどの存在となっていったのか、この三日間で三蔵は思い知らされた。
紅孩児との不本意な戦闘は容赦なく悟空の体力を奪い、三蔵が気付いた時、悟空は浅い呼吸を繰り返して昏睡状態に陥っていた。
一番近い町を探して、北に進路を取った。方角が違うなどと呑気なことを、言っていられる状態ではなかったのだ。悟空だけでなく、自分たちも。
町に辿り付いたその日、風邪という妖怪よりも質の悪い敵は、三蔵達まで襲った。
味も分からない食事を、半ば強制的に身体へ流し込み、ベッドへもぐりこんだが、意識が悟空から離れず、元来眠りの浅い三蔵は、何度と無く彼の枕元へ寄り添ったのだ。
そんな自分に大いに戸惑った。
師を失ったあの日から、この世に執着するもの等一つも無かった自分が、目の前の真白の魂に、これほど囚われていたという事実に。
そして、否定しようの無い感情にも。
だが、不思議とそれが嫌ではなかった。悟空と出会って自分の生活は、ガラリと変わった、毎日が喧騒に追われ以前の何倍も体力と気力を使った。それでもこの養い子が自分だけに向ける笑顔と、絶対の信頼は、ささくれた心を和らげ凍えた感情を溶かしていったのだ。
不意にその思考が途切れた。
「何やってんだバカ猿」
引き戻したのは、悟空の行動。彼はその身を起こそうと、力の入らない両手でシーツを掻いていた。一人考えにふけていた三蔵を、怒っていると勘違いしたのは明白。
「おれ…も、へい…き…いっぱ…い、寝て…だか…」
暴れようとする身体を押さえ込むように、抱きしめれば嗚咽交じりの声が響いた。
「ごめん…さんぞぉ…めんな、さい…」
『周りを気にする子ですから…』
八戒に言われるまでも無く、自分が一番分かっている事なのに、三蔵は内心で舌打ちする。その間も悟空は、ただ詫びの言葉を並べていくだけだった。
「怒ってる訳じゃねえ、今回は俺たちだって、ひっくり返ったんだ」
その言葉に悟空が驚いたように、顔を上げた。三蔵は嘆息して、自分たちも熱を出して寝込んだ事を、話してやった。
「それじゃあ三蔵は、もう大丈夫…なのか?八戒た…ちは」
「俺たちは大丈夫だ。だからお前も早く治せ」
興奮した所為か、悟空の呼吸が荒くなり身体が小刻みに震えている。三蔵はそんな身体を抱きしめて、悟空と共にベッドへ横になる。
「さんぞう…」
不安に揺れる瞳を見つめ、
「悟空…早く良くなる方法を、教えてやろうか」
唐突なその発言に、悟空が返事を出来ないでいると、
「甘えてりゃいいんだよ」
笑みを含んだ声で囁いた。
青天の霹靂…という言葉を知っていたかは、怪しいところだが、とにかく悟空は思いがけない三蔵の言葉に、戸惑いながら、
「甘えて…いいの」
と、小さく尋ねた。
「今日だけはな」
その一言で悟空に、笑顔が戻る。頬を薄紅に染めた花が綻ぶ様な微笑みは、三蔵が一番気に入っている顔。
「じゃねあのね…おまじない、して」
法衣の襟元を握り締め三蔵を見上げる。言われた三蔵は、僅かに首を傾げた。
「寺にいた時、熱出して…さんぞーがしてくれた」
記憶の糸を辿る。
そういえば、と思い出す。あれは悟空が初めて迎えた冬の事だ。
今のように熱を出し、公務だという三蔵に行かないでと泣きついた。降り積もる雪への恐怖と身体の具合の悪さが、悟空を怯えさせて一人はイヤだと泣きじゃくった。
「あれか…」
自分の行為を思い出し、苦笑交じりで呟いた。
「うん…ダメ?」
否と言うのは簡単だったが、甘えていいと言ったのは自分だ。三蔵は小さく息を吐くと、半身を起こして、その頬を包み込んだ。悟空はそっと、瞳を閉じる。
「早く、良くなれ」
囁いて、額に口付けを落とす。
「早く…良くなれ」
そして右の頬。
同じ様に囁いて、左の頬に。
「早く、良くなれ…悟空」
最後は口唇に。
蜂蜜色の瞳が幸せそうに笑う。ありがとう、と呟いた悟空に三蔵は口の端を少し上げて、応えてやった。
「寝ろ…ここに居てやるから」
頷いて瞳を閉じれば、大きな手が胡桃色の髪を撫でる。
いつしか小さな寝息が零れだすと、三蔵はじっと悟空の寝顔を見つめた。出会った頃よりは成長が見られるが、やはり寝顔はあどけない。
敵と相対する時の鋭い金と、二人だけの時に見せる、甘い蜂蜜色。
時折見せる大人びた横顔と、幼子のような無邪気な笑顔。
自分だけが知っている、悟空の表情。この養い子は事あるごとに、自分の傍を離れないと宣うが、手放すつもりなど欠片も無い。けれど、それを告げるつもりは無い。
「追いかけて来い…どこまでも」
自分だけを見て、自分だけを追ってくればいい。
「時々は捕まってやるよ、今日みたいにな…」
今一度、愛し子に口付けて、共に瞳を閉じた。

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