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小さな恋の物語
「ほら悟空、ごあいさつしなさい」
母親の後ろから盗み見たその人は、怒っているような顔、でも紫の瞳がとてもキレイだと思った。
「こんにちは…お兄ちゃん」
恐る恐る発した声に、その瞳がちょっとだけ笑った後、なんにも言わずに、自分の頭を撫でてくれた。
その日の雨は、咲き出した紫陽花を凍らせるような、冷たい滴だった。
「寒みぃ」
小さな悪態は雨に消え、少年は肩をすぼめて家路を急ぐ。
ポケットの中を探りながら、鍵を取り出していると、ふと視界のすみで何かが動いた。足を止めて、一歩後ろへ退くとそこは隣家の玄関先。小さくうずくまる物体が雨に濡れていた。
「悟空か…何やってんだ、お前」
ひくりと動いた体から、ゆっくりと顔があがる。
「さんぞ…にぃ…ちゃ」
雨と涙でグシャグシャになった顔が、すがるように三蔵を見上げていた。
「お前ビショ濡れじゃねえか、何で家に…」
駆け寄って、最早手遅れかもしれないが、その小さな身体の上に傘を差し掛ける。
「うぇ…
きょ、おか…ぁさ…ふぇ…カギ…なく」
涙混じりの言葉を解読すると、今日は母親が居なくて、カギを持たされたのに、それを失くした…らしい。
三蔵は小さく息を吐いて、グシグシと泣く悟空の頭に手を置いた。途端に子供の顔が上がる。
「泣くな。んで、いつまでもこんなとこに、居るわけいかねえだろ」
そう言って、頭に置いた手をそのまま差し出す。
「ホラ、俺ん家行くぞ」
「さんぞう兄ちゃん」
悟空は泣き笑いの顔で、その手を取った。いつもは自分よりも冷たいその手が、今日はとても暖かいと思った。
悟空を連れ帰ると、三蔵は浴室からバスタオルを持ってきて、頭からワシャワシャと拭き始めた。悟空は大人しくそれを受け、いいぞとタオルを取られると、嬉しそうに三蔵を見上げた。
「…っしゅん」
途端に上がった小さなくしゃみに、彼の衣服もたっぷりと水分を含んでいることに気付き、三蔵は再び奥へ取って返し、自分の部屋からTシャツを持ってくると、悟空に手渡した。
「これでも着てろ」
こくりとうなずいてシャツを受け取り、着替えを始める悟空をリビングに残して、三蔵はキッチンに向かった。
マグカップに牛乳を注ぐと、そのままレンジに突っ込む。
「三蔵兄ちゃん…」
振り向くと悟空は、ぷらりと袖を垂らして立っていた。
「おっきい…」
垂れ下がった袖を上げて、照れたような笑みを見せながら、悟空はぽてぽてと三蔵の元へ駆けてくる。呆れたような顔を見せた三蔵は、それでも悟空の袖を折ってその手を出してやると、レンジから出したマグカップを手渡した。
「熱いからな、ヤケドすんなよ」
素っ気なくて優しいその言葉に、悟空は笑顔で頷いてから、思い出したように言った。
「これ、甘い?」
「何…」
「お砂糖、入ってる?」
甘くないと飲めないと訴える悟空に、三蔵は仕方なしに砂糖を入れてやる。そうすれば悟空は、また嬉しそうに笑うのだ。
三蔵は悟空と共に自分の部屋へ行くと、宿題があるから、お前は適当に遊んでろと、机に向かった。
「三蔵兄ちゃん、宿題難しい?」
「一年の勉強よりはな」
ノートにペンを走らせながら、時折悟空の声に答えてやる。その内、静かになった背後に、三蔵が振り返ると、ベッドにもたれて船を漕いでいる悟空がいた。
「おい」
呼びかけに返事は無い。三蔵はそばへ来ると小さな身体を抱き起こして、ベッドに放り込んだ。
温もりにもそりと動いて、寝やすい場所を見つけると、寝息が聞こえ始めて三蔵はそっと、その場を離れようとした。
「んぞ…にぃ…ちゃ」
悟空の口から零れた甘えたような声に、三蔵の心臓がとくんと鳴った。
ベッドで眠る悟空は起きる気配も無く、三蔵はそこから目を離せずにいた。
寝言で名を呼ぶと言うことは、自分が子供の夢の中に、居るのだろうか…兄の様に、悟空に慕われているという、自覚はある。そして、自分もまんざらではない。三蔵は無意識に、その寝顔に手を伸ばした。
指先に触れた悟空の頬は、柔らかい。
「赤ん坊みてえ…」
頬の線に沿って指を滑らすと、くすぐったいのか口元が、僅かに綻ぶ。
「おもしれえ」
そのまま、三蔵は悟空の鼻を摘んでみた。
摘んだまま、悟空の様子を眺めていると、息苦しくなってきたのか、口が開いた。それでも、起きる様子はない。
「しぶといな」
そんな事を呟いて、今度は口も塞いでやろうかと、指先で悟空の唇をなぞった途端、
「痛てぇー!」
三蔵の顔が苦痛に歪んだ。悟空が三蔵の指に、かじり付いたのだ。
「なにしやがる!チビザル」
手近にあった雑誌を丸めて、寝こけた悟空の頭に振り下ろす。衝撃で目が覚めた悟空は、一切の状況が飲み込めずに、目をぱちくりさせていた。
「三蔵兄ちゃん?」
「てめえ、よくも…」
「俺?何かしたの」
「何かじゃねえ!」
言いかけてはたと、思い出した。この状況を、なんて悟空に説明するのか。
一人悩み始めた三蔵を、悟空は首を傾げて眺めていた。
「三蔵兄ちゃん、どうしたの?」
「なんでもねえ…」
悟空に悪戯してたなんて、言える訳がない。三蔵は痛む指を擦りながら、素っ気無く答えた。
それに対して、深く考えない悟空は、ふと自分の居る場所が気になった。
「何で俺、ベッドにいるの?」
「あ゙あ゙、お前が寝ちまったからだろ」
三蔵の答えに、そっかぁとのんきに笑い、何を思ったのか再び、布団の中に潜り込んだ。
「へへ、暖かい三蔵兄ちゃんのベッド」
頭だけだして、ニッコリと三蔵を見上げる。そんな悟空の仕草に、言葉を失っていると、
「今度、泊まりにきてもいい?一緒に寝よ、三蔵兄ちゃん」
とんでもない事を言い出した子供(自分も、立派に子供だが)に、三蔵は眩暈がした。
「兄ちゃん?」
黙ったままの彼に、さすがに悟空も心配になったのか、起き上がって三蔵の傍へ来る。
「勝手にしろ」
精一杯の一言を投げつけると、机に向かう。きょとんとそれを見て、それから悟空は、
「うん!」
太陽の様に笑った。
嬉しそうなその声を背中に聞いて、三蔵は自分の中の訳の分からない感情に、戸惑っていた。
かくして、三蔵少年の恋の試練が、ここに幕を開けた。
to be cocontinued … え?

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