「さんぞ、なんか話して…」
「てめえに聞かせるような話なんか知らねえよ。これ読んでやるから、大人しく寝やがれ」
いつだって、どこだって…
春眠、暁を覚えず ————
多分にもれず、ここにも一人。起きたのは、単に腹の虫が盛大に鳴ったから。
「ハラ減った…」
素直に自分の感情を唇に乗せ、モゾモゾと寝台を抜け出して、備え付けの洗面室でジャブジャブと顔を洗う。
乱暴にタオルで拭って、一度大きく伸びをするとふと思い出す、目覚める前の夢。
三蔵に拾われて直ぐの頃。眠れない夜が続いて、三蔵を困らせた。
一人の時には感じなかった、「一人ぼっち」。眠れないのは、閉じた目を開けた時、また一人になっているのではという、「恐怖」以外の何ものでもなかった。
不眠の毎日は、確実に悟空の体力を奪い、他人に対して冷徹なほど無関心の三蔵ですら、何とかしなければと思ったほどだった。
尤も、彼はその後の自分の変化に、大層戸惑ったらしいが…
とにかく、一人では眠れない悟空を寝かしつける役は、自然と拾い主の仕事となり、寝物語など何一つ知らない彼がとった手段が、絵本を読み聞かせる事だった。
その中で、悟空が特に気に入っていた話。
「男の子が、でっけー飴玉喰うやつ…何ていうんだっけ」
実のところ、お気に入りといっても悟空はその話の結末を知らない。
話は、とてもワクワクするものだった。朝、目覚めると男の子に届いていた、一通の手紙。その中に入っていた地図を片手に、始まる探険。
でっけー飴玉というのは、探険に出発する前に、男の子が買った大きな三角のイチゴあめの事である。
けれど悟空は、話が終わる前に寝入ってしまうので、男の子の探険の結果を知らない。がんばって起きていても何時の間にか、朝を迎えている。
いつしか、寺院の生活に慣れた悟空は、三蔵の夜語りがなくても眠れるようになり、結局物語は中途半端のまま、悟空の記憶の奥にしまわれた。
「なんで思い出したんだろ…」
そんな悟空を現実へ引き戻した、派手な腹の虫。彼は身支度を済ませると階下の食堂へと、駆け出した。
食堂を覗き込めば、見慣れた笑顔が待ち構えていた。
「おはようございます、悟空」
「おはよ、八戒。みんなは?」
「悟浄は部屋に居ると思いますよ、三蔵は朝食が済んだ後から、見かけませんね」
「え…居ないの」
分かりすぎる程の変化に、八戒は内心苦笑を隠せない。三蔵に向ける真っ直ぐな感情は、時に眩しいと思わせるくらいの、純粋さがあった。
落胆する悟空の頭を撫でて、
「大丈夫ですよ、煙草でも買いに出たのですよ、きっと。それよりも、お腹空いたでしょう?」
「うん…」
食べ物でも駄目ですか、さてどうしましょう。
目の前の落ち込む姿を眺め思案に暮れていると、そこへ宿のメイドが入ってきた。
「あの、孫悟空…さん?」
「悟空?」
「俺?」
同時に返ってきた返事に、メイドは一瞬戸惑いを見せたが、悟空に一枚の便箋を渡すと小さく一礼してその場を後にした。
「なんだろ…」
開いてみればそこには、よく知っている流麗な文字の列があった。黙ってその文字を目で追ってから、弾かれたように上がった悟空の顔は、八戒ですら呆れてしまうほど輝いていた。
「俺、外行ってくる!」
「悟空っ!」
食事は、と言いかけてから、くすりと笑みを漏らす。手紙の内容は分からないが、送り主が誰なのかは彼を見れば直ぐに分かる。
出発は明日だ。悟空の居ない静かな朝食の席で、有髪の最高僧に告げられた時は、正直言って理由が分からなかった。
八戒がそれに気付いたのは、三蔵がテーブルに置いていった新聞を何気なく開いてみた時、きっと彼はこれを見つけたのだろうと、半ば確信めいたものがあった。
「あとは、三蔵に任せましょう」
一人呟くと、彼はゆっくりとした歩みで食堂を後にした。
宿の入口で、自分の足元を見た。
【宿の入口から、67歩歩いて右側の店に入れ】
「67歩?」
三蔵の手紙にはその一言だけ、記されていた。悟空に残された方法は、その指示を実行する事。彼は、何時に無く神妙な面持ちで一歩を踏み出した。
「64、65、66、6…7」
右側の店。のぼりには、「自家製豚まん」の文字。
悟空の腹が急に主張を始めた。
「入れって言っても、俺金なんか持ってない…」
店の前でどうしようかと、ウロウロしていると、そんな悟空に気付いたのか中から、かっぷくの良い主人が出てきた。
「孫悟空さん?」
主人の問いに悟空は、こくりと頷いた。すると、ちょっと待っててくれと店の奥へ消える。戻ってきた時には、空腹の胃を刺激するような匂いのする紙袋を持ってきた。
「これを渡してくれって、言われてな。大丈夫、代金は貰ってるよ」
驚く悟空に紙袋と、一枚に便箋を渡した。
【その店から。30歩歩いて右の店に入れ】
「30歩…」
「ゲームでもやってんのかい?」
店の主人が不思議そうな顔で便箋を覗き込む。それに、曖昧な笑顔で答え、結局悟空は三蔵の手紙に従うしかなかった。
30歩進んだ先には、桃饅と胡麻団子の包みを渡され、やはりそれにも手紙が付いていた。
手紙の通りに着いた先はタバコ屋で、渡されたのは三蔵の愛煙赤箱、そして手紙。
次の店は、東国の米菓子だった。硬そうで、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「次は…41歩」
両手いっぱいに食いモンの袋を下げ、数えながら歩を進める。
「ここだ…お茶?」
恐らくは三蔵と自分の分なのであろう、二人前のお茶を貰い、再び手紙の指示を実行しようとして、悟空の脳裏にフラッシュバックしたのは、幼い頃の絵本。
「同じ…だ」
絵本の少年が持っていたのは地図。探険に行く前に、いろいろな準備をした。今、自分がしているのは、全く同じ事ではないか。
物語の結末は知らない。でもきっと最後に待ってるのは三蔵だ。悟空は両手の荷物をしっかりと抱えなおすと、歩き出した。
残り少ない赤箱の中身を認めて、その人は大きく息をついた。
「バカ猿…」
無意識の悪態。その口元は、上がっている。
今朝、日課である新聞に目を通していた時、ちょうど日付が目に入り、そして気付いた。
悟空の誕生日。
昨日の彼の態度を見る限り、本人は気付いてない。やはりバカ猿…だがそこで思い留まった、自分も己の誕生日を忘れていた事に気付いたからだ。
とりあえず、出発を一日延ばしたのは、八戒が何か言い出すだろうとの思惑が働いたから。
けれど、自分が何もしないわけでは無い。
あの日 —— 世界の全てが、色を失ったように見えた。
この先、決して人に心動かされる事など無いと、思うほど。実際、悟空に逢うまでは、誰一人記憶に残る様な人間は居なかった。無関心を装い、冷徹の仮面を被って生きてきた。
そう、あの声を聞くまで…
姿無き声に悩まされ、我慢も限界を超えた時、見つけて、始末する。三蔵の出した答えは、極めて簡単で明確なもの…の、はずだった。
薄闇の奥の、あの金を見るまでは。
『連れてってやるよ…仕方ねーから』
伸ばした己が手を彼が取った時、自分は「手に入れた」と、確かに感じたのだ。
何をと問われても、答えることは出来ないが、自分は探していた。そして、見つけたのだ。
「とんでもねえ、拾いモンだ…」
普段では見ることが出来ない、彼の思い出し笑いは、風がこっそりとさらって行った。
あんなに一日が、ひと月が、一年が早く感じられた事は、一度としてない。
拾った子供は、身体だけはそれなりに育っていたが、中身は生まれたての赤子と大差ないくらいの、我がまま振りを発揮し、頭痛の種は日増しに大きくなるばかりだった。
中でも、三蔵を悩ませたのは、「一人の恐怖」だ。とにかく一人を恐れる子供は、彼の傍を離れようとせず、眠る事すらも拒否したのだ。
そんな子供に、ほとほと困り果てた頃、檀家の老婦人から一冊の本を渡された。
それから始まった、三蔵の夜語り。
悟空を寝かせ自分は枕元に腰を下ろす、毎夜聞かせた話は、すっかり気に入った様だが、最後まで聞いたためしが無く、悟空は本の最後を知らない。だが、そのお陰で悟空は眠る事を厭わなくなり、三蔵は悩みの種が一つ解消された。
今、悟空は絵本の中に居る。結末を知らない絵本の世界。
何故だ…素直にそう思う。自分は何故、悟空にこんな事をさせている?彼はもうすぐ、ここへ辿り着く。たくさんの食べ物を抱えて…悟空に逢えば、その答えが分かるだろうか。
「三蔵…」
「遅い」
「だって、重い…」
「てめえの喰いモンだ、自分で持ってくるのは、当たり前だろう」
手紙のゴールには、やはり三蔵が居た。嬉しいけど、分からない、なんでこんな事したのか。悟空は疑問を言葉にした。
そして、返ってきたのは、盛大なため息の後、
「今日は、てめえの誕生日だろうが」
の、一言。
「あ…」
忘れてた。
俺の誕生日、生まれた日じゃないけど、三蔵が俺に世界を与えてくれた日。大切な人が出来た日。
「さんぞ…ありがと」
ちょっとだけ三蔵の顔が滲んだけど、笑って言えた。三蔵はいつもと変わらない顔で、煙草をふかすだけ。
「さっさと喰え」
合図の声に、暫し圧巻な食事風景が展開された。三蔵は黙ってそれを眺め、時折り悟空が自分を見ては微笑むのに、眼を細めて応えてやった。
「なあ三蔵、俺さここに来るまでに、思い出したんだけど、これって寺に居た時、三蔵が読んでくれた話にそっくりだな」
「そうか」
三蔵の気の無い返事も、もろともせず悟空は一人、うん絶対そうだと納得する。ややあって、三蔵に向き直ると、
「あれって、最後どうなったんだ?」
予想通りの質問が返ってきた。
「最後まで聞いてない、てめえが悪い」
突っぱねてやれば、ぷっと頬を膨らませた。
「何だよ、寝ろって言ったの三蔵じゃんか!それに…あれは、三蔵だって…悪いんだかんな」
これには三蔵の眉がひくりと動いた。毎晩、頼まれもしないのに、本を読んでやった自分に向かって、悪いとは何事だ。声を落として、何故だと問えば、悟空はふいと顔を逸らせてしまう。
そんな悟空の態度に、急激に気分が冷めていく中、三蔵はふとある事に気付いた。顔を逸らせた所為で、悟空の耳が視界に入り、それは誰が見ても分かるほど、朱に染まっていたのである。
「おい、何で俺が悪いんだ」
聞く声はまだ低いまま。悟空は肩を縮こませて、三蔵の顔も見ずにたどたどしく、言葉を発した。
「だって…さんぞーの声、優しいから…俺、安心して…」
直ぐには返事が出来なかった。三蔵を見ない悟空と、悟空から目を離せない三蔵。沈黙に耐えられなかったのは、悟空のほうだった。
「ああっ!だからっ、あの話。最後はどうなったんだよ」
あれは…結末を思い出す。
「自分の家へ、帰ったんだ」
へ?と抜けた顔の悟空がそこに居た。どうやら自分が想像していた、ものと違うようだ。そうなの?と訝しげな表情を三蔵に向けた。
嘘は言ってない。確かに絵本の少年は、家へ帰ったのだから。ただし、三蔵の説明はかなり、内容をはしょっている。
「なあ、本当に家に帰ったのか?」
なんとなく腑に落ちないのか、悟空が同じ事を聞いた。
「自分の家以外に、どこへ行くってんだ」
三蔵の答えも同じだった。
そこまでして、漸く悟空はにこりと笑った。
「そっか、じゃ俺と同じなんだな」
同じとは、どういう事か。すると悟空は、当たり前のように言ってのけた。
「だって、俺もどこ行ったって、帰るとこは一つだから」
そうして悟空の瞳は真っ直ぐ、三蔵を捉える。
「ここだよ」
三蔵を見つめたまま、己の右手を彼の胸に当てた。
「俺の帰るとこは、三蔵のとこだけだから…」
目が離せない。返事も出来ない…
一方の悟空は自分の告白が、三蔵の気分を損ねたのかと不安になり、小さな声で彼を呼んだ。
「三蔵…怒った、の?」
「…バカ猿」
その一言が、精一杯だった。
そうか…自分は不安だったのだ。日毎に己の世界を広げていく悟空が、いつか自分の元を飛び立ってしまうのではないかと。だから、こんな馬鹿げた事をした。
「ダセぇ…」
「えっ?なに」
その呟きは悟空に届かず、ただ三蔵の唇が動いた事で、彼が何かを言ったと分かり、悟空は慌てて聞き返した。
「三蔵、何て言った…さ、さ、さ、三蔵?」
不意に抱きしめられて、悟空は更に慌てた。モゾモゾと身体を捩るが、優しい拘束は緩む事は無く、彼は逃れる事を諦めてそっと三蔵の背に、腕を回した。
大好きな三蔵の匂い。胸から伝わる彼の心音は、ちょっとだけ早いと感じた。
三蔵は、柔らかい悟空の髪に頬を寄せる。自分より高い少年の温もりが、心地良いと思えるようになったのは、いつの頃だったか…
そして、絵本の最後を思い出す。
少年は、探険の途中で友達を見つけた。その友達の家にも行った、けれど最後は自分の家へと戻っていく。
ああ、そうだ…
自分はきっと、確かめたかったのだ。どこへ行こうとも、悟空は必ず己の元へ戻ってくると。
湧いてんな。そんな言葉を飲み込んで、くっと喉を鳴らした。
「三蔵、何かヘンだぞ」
「てめえと一緒にすんな」
あしらう様な言葉に、悟空が何だよと、反論しようとするがそれは叶わず、大きな金眼は見開かれたまま、光る金糸を追っていた。
触れた口唇の熱さが、悟空の思考を溶かす。
「キスん時は、目ぇ閉じろ」
一言だけ告げると、離れたそれが再び重なり、悟空は瞳を閉じ背に回した手が、彼の法衣をキツく掴んだ。
「三蔵、手繋ご」
いつもなら拒否の言葉が返ってくるのに、今日は自分より少し冷たい指が、無言で絡んだ。
すっかり気分をよくした悟空は、隣を歩くその人を見上げて、小さく声を上げて笑った。
返ってきたのは、不機嫌を装った声。 「何だ」
「今日の三蔵、すげー優しい」
「今日だけだ」
「誕生日だから?」
「分かってるなら、聞くな」
声には出さずに頷いて、握った手に力を入れれば、同じ様に握り返された。
三蔵は優しいよ、いつも。俺、知ってるんだからな。
だから、
「三蔵、ありがとう…大好きだよ」
別の言葉で伝えた。
「言ってろ」
「うん、いつでも言うからな」
「バカ猿」
「うん…」
そうやって二人は並んで歩く、あの角を曲がれば宿は目の前。その時、三蔵が悟空の腕を引いた。
「愛してる…」
三蔵の言葉に、頬を染めて悟空は笑った。大輪の花の様に ————

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