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初めて触れた時から、この髪は己の手によく馴染んでいた ――――
夢 想 華
頬を撫でる微かな風の感触に、三蔵の意識が浮上する。
緩慢な動作でゆるゆると瞼を押し上げ、衣擦れの音と共にベッドの上に身を起こした。
ゆっくりと視線を巡らせ、深く息を吐く。元来、眠りはそう深い方でない、それは今までの生き方で自然と身に着いたもの、深い眠りは「死」を意味する。信じるものは己と、その手に握った鉛色の銃身のみという特殊な環境で培われた、いわば彼にとっては、生きながらえる術。
ベッドサイドのテーブルに手を伸ばし愛煙を咥えると、吐き出した白煙が薄く開いた窓から闇へと昇っていく。
ふと、傍らの温もりに目を落とした。
仄かに光る月明かりに濃さを増した胡桃色の髪、今は閉じたその瞳が天上の月よりも太陽よりも、明るい事を自分は知っている。
三蔵はついと柔らかいその髪へ指を差し入れた。髪の流れに沿って静かに梳いていく、ゆっくりと何度も…
「さん…ぞ」
暫くして小さな声が、三蔵の耳を振るわせた。
「ど、したの…」
先よりも幾分大きめの声に、三蔵の瞳がすっと細くなる。
「なんでもねぇ…いいから寝てろ」
言葉ほど強い調子でないそれに悟空は、ん、と頷いてはみせたがその蜂蜜色の瞳は、未だ三蔵を見上げていた。
「何だ」
僅かに低さを増した三蔵の声音に、躊躇いがちに口を開いた。
「何処にも…行かない?」
数瞬固まって、それから三蔵の指が再び悟空の髪を撫で始めた。言葉での返事ではなかったけれど、柔らかいその感触に悟空は安心したように目を閉じた。
「おら、さっさと風呂入って、その汚ねぇ顔何とかして来い」
「……ふ、ろ?」
「まさか、てめえ風呂も知らねえつんじゃねぇだろうな」
「ふろって、なに?」
それは悟空を連れ帰った日の事。薄汚れた顔、泥だらけの手足、それだけでも寺の連中は露骨に顔を歪めたが、何よりも忌み嫌ったのは、悟空の金晴眼だった。
そんな僧徒を脅し半分で黙らせ、自室へと連れ込んだ悟空を、風呂場へ放り込んだ。その途端、
「やだぁー!開けてぇ、三蔵!ここ開けてーっ」
閉じた扉を打ち破りそうな勢いで中の悟空が暴れだした。驚いた三蔵が扉を開けば、そのままの勢いで悟空は彼に飛びつき、二人して床に転がった。
「何しやがる!このバカ猿が」
怒鳴りつけて拳を頭に食らわせても、悟空は抱きつく手を緩めることは無く、そこから漏れ聞こえる嗚咽に、三蔵は盛大な溜息を吐いて拳を解いた手を小さな頭に乗せた。
「…一人がそんなに嫌か」
静かな問いかけに悟空の身体がびくりと震え、次いで頷くだけの答えが返ってきた。
―――― 五百年の封印てのは本当らしいな
自分があそこへ現れるまで、この子供はたった一人で生きていた。
誰かを呼ぶこともなく…
誰に呼ばれることもなく…
一体、どんな思いだったろう。ただあの格子の中から、来る日も来る日も幾年も季節の移り変わりを見続け、何を考え生きてきたのか。否、何も考えてはいなかったのだろう。まともな思考では恐らく生き抜くことは出来なかったはずだ。
三蔵は嘆息して、震える身体を落ち着かせるように、軽く子供の頭を叩いた。
「別に一人にしたわけじゃねえ、とにかくその汚れた面を何とかしなきゃなんねえだろ」
言い聞かせるような静かな口調。そうして、自分の取った行動に、彼は自ら首を捻り苦く笑った。
「おい、暴れるな猿!」
「さんぞっ!あちい」
「ガマンしろ」
浴室での大騒ぎはそのまま寝室まで続き、雫を振りまきながら逃げ回る小猿を追いかけて、大声を上げる三蔵を誰が想像できただろう。
「逃げるなバカ猿」
「やぁ〜だ」
ジタジタと暴れる子供を押さえつけ、頭からすっぽりとタオルを被せる。
「うわ〜ん、ヤダよぉ三蔵!」
「濡れた頭を拭くだけだ」
わしゃわしゃと乱暴なくらいの手つきだったが、その内に悟空が大人しくなる。訝しんだ三蔵の手が止まり、
「どうした?」
さっきまでの騒ぎが嘘のように静かなった悟空に、三蔵はタオルを外して声を掛けた。
「おい」
「あったかい…すごく、さんぞ…が、あったかい」
そう言って小さな頭が擦り寄るのを三蔵は止めることが出来なかった。こんな風に他人に触れる事、触れられる事など今までの自分なら、けして許しはしなかったはずなのに。
嫌ではないのだ。自分が悟空に触れる事も悟空が自分に触れる事も。それが何故かは解らないが。
「おい、寝るんじゃねえよ」
らしくない己の行動にすっかり調子を狂わされて、それを取り繕うことも出来ずに、三蔵は憮然と悟空のなすがままになっていた。
「猿、寝るな。起きろ」
「…うん」
完全に寝入る体制に入った悟空は、返事はしたものの一向に動く気配もなく、さすがに苛ついた三蔵がその身を剥がそうとした時、
「俺…も、一人じゃない…よ、な?」
その声に、何も言えなくなった。
たった一人で永い時間を過ごした悟空にとって、この温もりがどんなものか…小刻みに震えだすその肩が、雄弁に物語っていた。
「一人じゃねえよ…俺が、居んだろ」
言葉は何の躊躇いもなく音になり、それにつられて上がった悟空の顔は、三蔵が初めて見る心から嬉しそうな笑顔。
湿り気の残る柔らかい髪をゆっくりと撫でてやれば、震えが収まった小さな身体が静かな呼吸を繰り返す。
「寝やがった…」
そう仕向けたのが自分だとしても、なんだか釈然としない複雑な思いを抱き、けれど縋りついてくる子供をどうする事も出来なくて、結局はそのままベッドへ横になった。
それから暫くの間、一人寝の出来ない悟空に寄り添っては同じ夜を過し、その度に悟空の髪に指を差し入れると、早く寝かし付けるためだとか、手持ち無沙汰だからとか、聞かれもしない言い訳を数多く並べながらもその行為を止めず、そして、それが二人にとって特別なイミを持つ様になるまでに、大した時間は必要なかった。
今も、三蔵の手は止まらない。
規則正しい呼吸、幼さの残る頬、安心しきったその寝顔はあの頃と何ら変わる事がない。一つ変わった事が有るとするなら、指に掛かる悟空の髪の短さ。
――――惜しいな…
そんな自分の思考に思わず苦笑いが漏れた。
成り行きで面倒を見る事になった、騒がしいイキモノに手を焼き、いつしか、猿というより仔犬の尻尾のようにフワフワとたなびく、悟空のその髪を結うのが三蔵の日課となっていたあの頃。
「猿にやらせれば、日が暮れる」
後に知り合う二人の仲間に、もっともらしくそう答えては、誰にもその髪に触れさせはしなかった。
そして西へ旅立つ前、悟空に髪を切れと言った三蔵。
嫌がる少年に鉄拳付きで無理やり承知させると自ら鋏を入れたが、本人以上にこの髪を切ることに抵抗があったのは三蔵の方。けれど、短くなった髪を見て、しょげ返る悟空を慰めたのもまた、三蔵の優しい愛撫の手だった。
「なんで、切らなきゃなんねーんだ」
自分の胸に身体を預け、拗ねた口調の悟空に三蔵は言い聞かせるように言った。
「旅に出りゃ今よりずっと、厄介な戦闘が続くんだ。長い髪は敵の標的になるだろ」
「そうかもしんないけど……俺、さんぞーに髪結わいてもらうの、好きだったのにぃ」
その告白に僅かに目を剥いて、けれど三蔵はゆっくりと短くなってしまった、悟空の髪に指を滑らせた。
「ここへ戻って来たら、また伸ばせばいいだろ」
「…そしたらまた、三蔵が結わいてくれる?」
「……ああ」
今にして思えば、あの一言には色いろな意味が込められていた。
生き抜くこと。
目的を達すること。
そして何より、悟空と共に在ること。
誓いにも似たその言葉。
あれから、悟空が髪を伸ばすチャンスはいくらでもあった。実際、旅に出てから三蔵が悟空の髪について何かを言った事は一度も無いのだから。
にもかかわらず少年の髪は、項が見え隠れするくらいの長さに切り揃えられている。伸びてくれば「切ってくれ」と三蔵の元へ来るのだ。
八戒が「伸びてきたら、僕が結ってあげますよ」と言った時でさえ、
「三蔵が切ってくれるから、いいよ」
と言った悟空。
その言葉が意識してなのかは解らないが、三蔵のあの一言から、悟空なりに何かを感じ取ったのかもしれない。
ゆっくりと少しずつ、けれど確実に少年は成長の階段を上ってゆく。
半年先、一年先、五年先…こんな夜を過せるのは、あとどれくらいだろう。
いつか、腕の中からするりと消えてしまうかもしれない。その時、自分は?悟空は?
「ダセェ…」
らしくなく昏い思考に自嘲の笑みが漏れる、いつ訪れるかも解らない「その時」に何を思う必要がある。
今を生きる――――
自分たちにとって、それが全て。
一度頭を振って、三蔵は再びその身を悟空の隣へ横たえた。目を閉じようとしたまさにその時、
「さ……んぞ」
一瞬歪んだ養い子の顔、探すように伸びてきた手、その指先が三蔵のシャツを見つけた途端、きゅっと力が篭り、寄せた眉根が緩む。それを目で追っていた三蔵の口元が、微かに上がった。
「ガキ…」
呟いた彼の手が髪を撫でれば、安心しきった悟空の寝顔。
幼子を落ち着かせるそれが、いつの間にか三蔵の気持ちを癒す大切な時間になった。
初めて触れた時から、この髪は自分の手によく馴染んだ――――
触れる髪から伝わる温もり。
生きるために封じた感情を、「悟空と生き抜くため」に再び蘇らせた。
それを言葉にした事は無いけれど、腕の中の愛し子はきっと知っている。
「さんぞぉ…」
ほら、そこに浮かぶのは穏やかで、本当に本当に幸せそうな悟空の微笑み。
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