「これってやっぱ迷子…だよなぁ〜」
 とは言うものの、言葉ほど慌てた風も無く悟空は、広場の噴水の石段に腰を下ろした。
 街に逗留する時の日課、八戒との買い物は旅の楽しみの一つだ。知らない街並みを見て歩く、何より手伝いのお礼だと言って買ってくれるおやつこそ、少年の最大の目的ではある。が、三蔵と一緒ならもっと楽しいのに。と、悟空は思う。
「そういや三蔵んとこに来たばっかは、よく迷子になったっけ」 
 ぼんやりとそんな事を考えながら、人並みを眺める悟空の頬を、ふわりと風が撫でていった。




だ か ら こ の 手 を 離 さ な い で




 どうしてこうなってしまったのだろう。途切れることの無い人の流れを、呆然と眺めながら悟空はただ、立ち尽くすしかなかった。
 三蔵に拾われ山を下りてから一ヶ月近く過ぎ、悟空はこの日初めて長安の街に来ていた。
 半ばごり押しに近い形で、三蔵は悟空を自分の傍に置くことを寺院に承知させたが、悟空に対しての風当たりは生半可なものではなかった。
 それでも悟空にとっては、三蔵の傍に居られるという事実だけが全てで、片時も彼の元を離れることは無かった。
 それが今はどうだろう、寺院以外の初めての場所で悟空は一人ぼっちで、自分の手を眺めていた。

―――― 絶対に離すな

 寺院を出る時、三蔵はそう言って悟空に法衣の袂を持たせ、だが神妙な顔つきで悟空がそれを握り締めていたのは、街へ入るまでの間だけだった。
 見るもの聞くもの全てが初めての街で、悟空の視線はあちこちと忙しなく泳いでいた。足が遅くなれば、容赦なく三蔵のハリセンが飛んできたが、それでも悟空の興味は周りの景色から離れることは無く、とうとう恐れていた事が起こってしまったのだ。
 通りすがりの店先に行儀よく座った真白のぬいぐるみ。たくさん並んだその中で、悟空の目を引いたのは彼と同じ瞳の色をした一体。もっと近くでそれを見たくて、悟空は身体の向きを変えた。その時、緩んだ手の中からするりと法衣の袂が、抜けていった。
 気がつけばそこに三蔵の姿は無く、悟空は人波と、自分の手を交互に眺め途方に暮れた。
「さんぞぉ…」
 呼んでみても彼が現れる気配は微塵もなさそうで、悟空はとぼとぼと歩き出し、心の中は暗く沈んだまま、こみ上げるものを何度も飲み込んでただ歩き続けた。
 その内、街の広場に辿り着き、子供たちのはしゃぎまわる声が響くそこで、悟空はとうとうしゃがみこんでしまった。


「どうした?坊や」
 声を掛けられたのはそれから暫くしてからだった、悟空が顔を上げると一人の老人が優しい眼差しで自分を見ていた。
「こんなところに座り込んで、一人で来たのかい?お家の人はどうした」
 その人は、しゃがんで悟空の顔を覗き込むと、そっと頭に手を置いた。途端に身体を強張らせた悟空から何かを感じ取ったのか、老人は静かに手を引くと、
「大丈夫、ここでじっとしてれば必ず、迎えに来てくれるよ」
 そう言って小さく笑った。その言葉に頷きはしたものの、悟空の中の不安はその体積を増していく。

『何ゆえに三蔵様は、あのような汚らわしい妖怪の子供などを、お傍に置くのか』
『今頃は拾った事を、後悔しておいでだろう』

 
 僧徒の陰口が頭で渦を巻いた。
 自分は三蔵に捨てられたのか。悟空を深い悲しみが覆い始め、けれど懸命に泣く事を耐えた。

―――― 弱い奴はいらない

 涙は弱さを表す。たとえそれが正しい法則ではなくても、今の悟空は込み上げてくる涙を無理やり押し戻すことで、自分を保っていた。
 このまま三蔵に逢えなくなれば、きっと自分はどうかなってしまう。他人の、三蔵の温もりを知ってしまった後で、あの孤独の中にはもう戻れない。
「さんぞ…」
 呟いた声は涙に滲んで、小さな心が悲鳴を上げようとした正にその時、
「悟空!」
 広場の向こうから聞こえる、耳に馴染んだ低いテノール。
「さ、ん…ぞぉ」
 ゆっくりと悟空に近づいてきた、ずっと待ち焦がれた人。
「てめぇは…手を離すなとあれほど、言った ――」
「三蔵様」
 怒りを含んだ三蔵の声に被さるように静かな声が続いた。
「坊やはよく辛抱しました。泣きたいのをじっと我慢して、貴方様の来るのを待っておったのです」
 三蔵の厳しい視線を浴びても、老人はその柔和な顔を崩さず言葉を続け、悟空と言えば唇をかみ締め瞬きもしないで金瞳を見開いていた。
「一人逸れてしまった事を咎める前に、どうぞ、泣かずに待っていた事を褒めてやってくださいませ」
 そう言って悟空に笑いかけ、深く三蔵に頭を下げると老人はくるりとその場を離れた。三蔵は暫くその背を見ていたが、悟空に向き直ると目を細めて少年を見下ろした。
 すくみ上がった悟空が次に来るであろう衝撃に、ぎゅっと目を瞑った。が、下りてきたのは、
「よく我慢したな…悟空」
 ほんの少しだけ呆れを含んだ、けれど限りなく優しい声音。
 頭に乗せられた手の暖かさが、そのまま三蔵の心を表していた。
 今は、泣いてもいいのだ。と…そして悟空の中で緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「ぅぇ…っく……ふぇ…」
 堰を切ったように溢れ出した涙は、幾筋も頬を伝い。くしゃりと顔を歪ませて、悟空は今まで噛み殺していた声を上げて泣き出した。
「さん、ぞ…さんぞぉ……ごめ、な…さい…ふ、わぁぁぁん」
 三蔵もまた法衣が濡れるのも構わず、気の済むまで悟空をその胸で泣かせ、静かに小さな背を撫で続けていた。




「なかなか涙止まんなくて…」
 初めて見る三蔵の困った顔まで思い出し、悟空はくすりと口元を上げた。あの日、寺院に帰っても三蔵は逸れた事を厳しく咎める事は無く、ただ黙って悟空が手を離した理由を聞いていた。
 そして数日後、執務室へ呼ばれた悟空は、思いがけず迷子の原因となったぬいぐるみと対面した。
『てめえと遊んでる暇はねぇからな、それで我慢しろ』
 あの時の、不器用な三蔵の優しさ。
 それは今も変わらない。もちろん、「自分だけに」というそれも…そのトクベツが、ほら広場の向こうから歩いてくる。


「さんぞ…」
「いい歳して、迷子なんかになってんじゃねぇ、バカ猿」
 言葉ほど怒った風もなく、どちらかと言えば呆れたそれに、
「やっぱ、来てくれた」
 悟空は笑みを浮かべて、彼の法衣を引っ張った。
「来なきゃ何時までも呼ぶじゃねえか、お前は」
「……へへ」
 その三蔵らしい口調に何故か急に泣きたくなって、悟空は視線を地面に落とした。
 どうしてなのか解らない、意味も無く不安な気持ちが湧き上がって、俯いた顔を上げられない。そんな悟空の頭上で盛大な溜息が聞こえ、それから頬が包み込まれた。
「また余計な事考えてやがる」
「だって…」
 
 いつか呼んでも来てくれ無い時が…
 呼ぶ声が聞こえなくなる日が、来るかもしれない…

 漠然とした不安に襲われて、思わず口唇を噛み締めた。そんな悟空に三蔵は頬に置いた手を滑らせ、そのまま頭を引き寄せると、
「いちいち探すのは面倒くせぇからな、掴んだモンは離すんじゃねえぞ」
 柔らかいテノールが悟空の耳をくすぐった。
「三蔵…」
 何故だろう、不安が消えていく。
 少しだけズルイと思った。三蔵には何もかも悟られてしまう、自分にはちっともその心を、見せてはくれないのに。

「行くぞ。荷物忘れんな」
 懐からだした愛煙を咥え踵を返す。離れていく三蔵を、悟空はじっと見ていた、その背が数歩先で止まる。
「どうした、置いてくぞ…悟空」
 振り返り真っ直ぐ悟空に伸ばされた、三蔵の右手。

 やっぱり…三蔵はズルイ、や ――――

 悟空は荷物を抱えると、迷う事無く三蔵の手を握り締めた。何事も無かったように歩き出す。
 暫く経って、宿の看板が見えてきた頃、
「三蔵も…手、離さないで、な」
 悟空の呟きに返事は返っては来なかったけれど、繋いだその手が少しだけ強く握られた。
 





こんな時シリーズの「コントロール」が三蔵だったので、こんだ迷子の小猿視点で。。。
一人ぼっちで膝を抱えて、涙を堪える悟空…昔の悟空って「泣く=弱い」っていう子供特有の方程式を持ってたはずだ。
三蔵に見守られて、強くなっていくのよ///(爆)