いつも、君の傍に優しい太陽




 ゆらり、ゆらり…揺りかごにゆられて。
 ふわり、ふわり…暖かい風に、頬を撫でられて。
 真白な世界の、それは夢?それとも…現実?




「あ?…」
「悟空!」
「おい、大丈夫か?」
 ぼんやりと開いた金瞳をゆっくりと巡らせて、悟空は覗き込んでいる二人を交互に見た。
「頭はまだ痛みますか?他には?」
 深緑の瞳を心配に滲ませたその人に、首を横に振って応えると、彼は肩の力を抜いて微笑んだ。
 そして、起き上がろうとする悟空の身体を支えたのは、燃えるような緋色の髪と瞳を持った人。
「ありがと」
 小声で呟き、辺りを見回した悟空の顔は、けれどどこか普段と違っていた。
「ったく、がむしゃらに突っ込んでくから、こんな事になんだよバカ猿が」
「…………」
 悟浄の言葉に無反応な少年に、二人の顔色が変わった。それを気配で察した悟空が、困惑の表情を浮かべる。
「あ、の…」
 その時、二人の背後で一連の成り行きを眺めていた彼は、おもむろに懐から取り出したそれを、思い切りよく振り下ろした。
「目ぇ開けたまんま、寝てんじゃねぇ!大バカ猿」
 その衝撃に悟空は頭を抱え、しかし次に困ったように顔を歪めた。
「三蔵、ちょっと待ってください。様子がおかしいです」
「……さん、ぞぉ?」
 それは、いつもの悟空からは想像も出来ないくらい、戸惑いと不安に彩られた声だった。


「悟空、僕らが誰か分かりますか?」
 間違いであってほしい。という彼らの淡い期待は、力なく顔を横に振った悟空によって儚く消え、
「おい待てよ。冗談だろ猿、俺様まで忘れちまったのかよ」
 そう言って、悟空の肩を揺さぶれば、上がったのは悟空らしからぬ小さな悲鳴。悟浄の手から力が抜け、そのまま片手で自分の顔を覆うと、天を仰いでしまった。
 そして悟空の口をついたのは、
「あの……これ、夢じゃ…ねぇの」
 思いがけないその言葉に、三人は再びベッドの上の少年を見つめ。そして、
「これが夢なら、お前は今何処に居るってんだ」
 三蔵の静かな声に悟空は微かに震え、肩で一度大きく呼吸をすると、搾り出すように呟いた。
「暗い…穴ん、中」
 そして、重い空気が部屋を支配していく。



「記憶喪失?」
「いえ、それとは少し違うと思いますよ。『暗い穴の中』っていう事は、おそらく閉じ込められていた岩牢の事でしょうから、記憶が後退してると言う方が正しいかもしれません」
「記憶の後退って事は、俺らと会う前に戻っちまってるって事か?」
「ええ…」
 八戒の返事に、悟浄は嘆息してちらりと視線を動かした。
 その先には新聞を広げ、しかし耳だけはしっかりと自分たちの会話を、聞いていたであろう最高僧。そして部屋の隅では、ベッドの上で膝を抱え、じっと息を殺している常とは違う大地の子。
「でもよ、このままって訳にいかねぇだろ」
 あの後、三蔵は一度も口を開かなかった。
 自分の名前以外は何も覚えていない悟空に、三人の名を教えたのは八戒。
 これは夢ではなく、もう貴方は自由なんですよ。そう言ったのも八戒。
「貴方を岩牢から出してくれたのが、ここにいる三蔵なんですよ」
 八戒の言葉に、悟空の目が三蔵に向いた時でさえ、彼は一言も発することは無かった。
 いつもより数段濃い、不機嫌なオーラを纏って活字だけを追う。実際、内容など全く頭に入ってはこないが、三蔵は新聞を置く気にはなれなかった。
 感じるのは悟空の視線。ぱたりと止んでしまったのは、己を呼ぶ音無き声。
 掛けてやる言葉を見つけられないまま、悪戯に過ぎていく時間。
 そうして、大人三人が何度目か分からない深いため息をついた時、部屋の中に響いたその音に、何故か彼らは救われる思いがした。

―――― くぅぅぅ〜きゅるる…

「あ、れ…」
 自分が立てた音に思わず腹を眺める。困ったように顔を上げた悟空は、三蔵の視線を真正面で受け表情を強張らせた。
 怯えたような悟空の態度に苛々する。まるで他人を見るような、自分の存在を忘れてしまった金の双眸。
「ちっ…」
 苦々しく打った三蔵の舌打ちがやけに大きく聞こえ、それが自分に向けられたのだと感じて、小さな身体を更に丸めると悟空は再び俯いてしまった。そんな二人の現状に、八戒は肩をすくめ、
「お腹空きました、悟空?」
 自分に向けられた柔らかい声に、悟空は少し考えたような仕草の後、
「腹…減ったの、かな?」
 他人事のような答えに、今度は悟浄が苦笑いを浮かべた。


 響くのは皿と箸が当たる音。
 通夜のような食卓は料理も減らない、普段から食の細い三蔵はほとんど手をつけず、悟空と食い物の奪い合いをする悟浄さえも箸が進まない。何より、悟空本人が箸を持ったまま、すっかりその動きを止めてしまっていた。
「食べられませんか?悟空」
 結局、声を掛けたのは八戒。
「よく…分かんね…」
 腹は空いているような気がする。けれど、何を口にしても味を感じられない。物を口に運び租借する、ただそれだけの行為に結果、悟空は大した量も食べずに箸を置いてしまい、そんな養い子の様子に三蔵は人知れず拳を握り締めた。






「さて…困りましたね」
「どうすんだよ、これから」
 部屋の隅で額が付き合うほど寄り合って、八戒と悟浄は声を潜めて話していた。
 重い重い部屋の空気は、それだけで息苦しさを感じ、実を言えばここから逃げ出したい気持ちで一杯なのだ。
 そして、僅かに動かした視界の端には、煙草を咥えたままの最高僧とその養い子が微妙な距離をとって佇んでいた。
「三蔵の奴、一言もしゃべんねえし…」
 自分たちの密やかな会話に気付いているはずなのに、まるで無関心を装う三蔵にほとほと困り果て、しかし何の解決策も見出せないまま時間だけが過ぎていく。
「いっその事猿の奴、張り倒してみっか」
 悟浄のその言葉に、心底呆れたような顔をして八戒は、
「構いませんよ。その代わり始末は自分でしてくださいね」
「あ?」
「ああ見えたって、三蔵は悟空を心配してるんです。目の前でそんな事をしたら、貴方明日の太陽は拝めませんよ」
「……だよな」
 言ってみただけ。最後にそう付け加えて、悟浄はハイライトを咥えた。それを眺めながら、ふと八戒の視界に入った目を擦る悟空の姿。
「悟空、眠いんですか?」
 話し掛けられた途端、肩が揺れた悟空に苦笑しながらも、八戒は穏やかな表情を崩さない。
「えと…あの…」
「いいですよ、眠いのなら横になっても。僕たちは隣へ移りますから、三蔵はこっちの部屋でいいですよね。さ、悟浄行きましょう、それじゃ、おやすみなさい悟空」
 一息に告げ、他の者がそれに応える隙も与えず、半ば強引に八戒は悟浄を急かすと部屋を出てしまった。
 そうして、静まり返った室内には重苦しい空気が忍び寄る。
 コチコチと響く時計の音がやけに大きく聞こえて、居心地の悪い事この上ない。そんな中、不意に三蔵の目が悟空を捉え、
「さっさと寝ろ」
 そう言うと自ら部屋の明かりを落とした、その途端。
「やっ!暗い…ヤダ!いやぁぁっ!」
「おい」
「やだぁ…暗い、よ……ひっ」
「悟空、おい!」
 膝を抱え頭(かぶり)を振って、その拍子にパタパタと涙がシーツに染みを作った。
「悟空、顔を上げろ…俺を見ろ」
 震える肩を掴んだ三蔵の声は、静かで、しかし否と言わせない強さがあった。
「悟空…」
 名を呼ぶ毎に、もがく動きが小さくなる。
「悟空…俺を見ろ」
 はっきりとした三蔵の口調に、今度こそ悟空の顔がゆっくりと上がった。ルームライトに浮かび上がった悟空は、酷く儚げに見えて、三蔵は顔を歪めた。そして、
「お前は…もう、自由だ」
 刹那、金瞳を覆う水膜が、細く細く銀糸を紡いだ。声も上げずに涙を流す悟空の姿に、三蔵の胸中に湧き上がる痛みと憤り。
 
 未だ過去を引きずる悟空。
 
 それを分かっていて、どうする事も出来ない自分。
 
 歯痒い思いの中で、結局三蔵が悟空にしてやれるのは、言葉にする事だけだった。
「お前は自由だ、ここは岩牢じゃない。俺がお前を見つけた、俺だけがお前の声を聞いた」
 言葉にして、温もりを与えて、漸く悟空の身体から強張りが抜け始めた。
「これは夢じゃない。俺が居てお前が居る…八戒も悟浄も」
 返事は無いが、ゆっくりと悟空の顔が縦に振られた。
「お前が俺を呼ぶ限り、俺がお前を見つけてやる。何度でも、何処に居ても……必ず探し出してやる」
「……ほん、と」 
 泣きはらした金の双眸が紫暗を見上げた。
「見つけて…くれる?約束…して、くれ…る」
「ああ、約束…してやるよ」
 三蔵の返事に、湧き上がった涙。けれど安心したように、悟空は微笑みの表情になった。三蔵は目を細めて、胡桃色の頭を引き寄せた。
「寝ろ」
 魔法の様な言葉。後ろ髪をゆっくりと撫でられて、悟空の口から安堵の吐息が漏れる。
 
 ああ、この腕はなんて心地良いのだろう。
 ずーっとずっと前から、自分はこの腕にいつも抱(いだ)かれていた気がする。

 微睡いが悟空を包み込み、耳元に微かに響くテノールの歌声が奏でる、優しい子守唄。
 その旋律は悟空が静かな寝息を零すまで続いていた。






「あ?…」
「悟空!」
「おい、大丈夫か?」
 ぼんやりと開いた金瞳をゆっくりと巡らせて、悟空は覗き込んでいる二人を交互に見た。
「頭はまだ痛みますか?他には?」
 深緑の瞳を心配に滲ませたその人に、首を横に振って応えのろのろと起き上がった。瞬きを繰り返し、部屋を巡る悟空の仕草に、八戒と悟浄の顔色が僅かに変わった。
 その時、二人の背後で一連の成り行きを眺めていた彼は、おもむろに懐から取り出したそれを、思い切りよく振り下ろした。
「目ぇ開けたまんま、寝てんじゃねぇ!大バカ猿」
「―――― っ……痛てーっ!!何すんだよ、三蔵っ!」
 自分の声すら響いて痛む頭を抱え、涙の滲む金瞳で暴挙の主を睨み付ける。
「ふん、夢じゃなくて、よかったじゃねぇか」
 気にした風も無く言い放たれて、しかし悟空は彼の言葉に今度は、その目を大きく見開いた。
「ゆ、め…」
 悟空の中で何かが引っ掛かった。

―――― 意識が退いていくような錯覚
―――― 真っ白な世界

 あれは何時の出来事?
 岩牢の中?旅に出る前?
 少しずつ記憶の糸を手繰り寄せる。無駄に多い敵、骨のある奴は居なくて、苦し紛れの手段は自爆。かわしたつもりだったが、派手な爆風にバランスを崩して転がった。
 そして、ブッラクアウト。

「夢…だったのかな」
 三蔵の暖かい手と、優しい歌声。
 低く囁かれる様な甘い声。

―――― 何度でも探し出してやる

「悟空?大丈夫ですか」
 八戒の声に我に返って、
「だ、大丈夫!も、平気…って、三蔵は?」
 気が付けば部屋に三蔵の姿は無かった。
「三蔵なら出てったぜ」
 椅子に腰掛けぽかりと紫煙を吐き出しながら、悟浄が目線で扉を指す。
 悟空はベッドを下りると、部屋を飛び出した。後ろで八戒が声を上げていたが、悟空の耳には届かなかった。


 独りぼっちの昏いあの場所で、自分はずっと待っていた。
 どんなに伸ばしても、決して届かない光に焦がれていた。

 けれど、ほんの微かな希望もあった様な気がする。

―――― 必ず、迎えに行く

 あれは、夢だったのだろうか。
 胸の奥につかえたままの言葉は、しかし彼の姿を見つけた途端、全く意味の無いものになった。

「三蔵っ!」
 勢いに任せて抱きついた悟空に、少しだけ眉を顰めてしかし三蔵は、そっと小さな背を抱いた。
「三蔵……さんぞぉ」
 存在を確かめるように広い胸元へ額を擦りつけた。温もりを感じ、仄かに匂う紫煙の香りに、悟空の細い肩が小刻みに震えだす。
 そんな養い子の様子に心中嘆息して、
「ここに居るだろ…どこへも行きゃしねぇよ」
 三蔵の手があやすようにその背を撫でた。
 顔も上げずに頷く悟空を暫く好きにさせていると、ゆっくりと金の双眸が三蔵を見上げた。
 三蔵は何も言わずに、ただ悟空を見つめている。
「三蔵…迎えに来てくれて…ありがと」
 すっと金の眦から一筋涙が頬を伝った。やはり三蔵は無言で、けれどそっと悟空の涙を拭った。



 その夜、自分の胸に顔を埋めて眠る愛し子。

―――― 迎えに来てくれて、ありがとう

『約束を守ってくれて、ありがとう』
 そう言われた様な気がした。だが約束も何も、あの日初めて悟空の存在を知った自分が、そんな約束など出来るはずはないのだ。
 それなのに眠る悟空の顔を見ていると、そんな事はどうでもいい事の様に思えてくる。
 自分は「悟空」を見つけた。
 それが現実であり、三蔵にとっての真実なのだから。


「迎えに行かねえと、いつまでも煩せえからなお前は」
 そんな事を呟いて、三蔵は僅かに覗く頬へ口唇を寄せた。
 安らぎに満ちた寝顔を飽く事無く見つめ、柔らかい髪をそっと指に絡める。不意に悟空が寝返りを打った。三蔵は小さく笑って、
「離れてんじゃねえよ…バカ猿」
 胡桃色の頭の下に腕を滑り込ませ、再び自分の胸に引き寄せると、その頭に口付けを落としてからゆっくりと目を閉じた。








花淋の頑なな意見「坊主に音痴はいない」
だって、読経ってリズムと音感の連続だから。って事で、ずーっと前から、三蔵に子守唄を歌わせたくて、無い頭振り絞ってネタを考えました。
悟空が夢を見ていたのか、現実に三蔵に「何度でも――」と言われたのか、書いていくうちに自分も分からなくなった(無責任な奴)ので、その辺深く追求しないように、サラっと読んでくださいませ。
感想、苦情などありましたら遠慮なくお願いいたします。
花淋拝