と唄おう



 煙を逃がす為に僅かに開けた窓から雨の匂いが忍び込んで、三蔵は筆を動かしていた手を止めた。
 同じくして扉を叩く音の後、お茶をお持ちしました。と言う傍仕えの声に返事をしてその手を懐へ忍ばせる。
「失礼いたします三蔵様」
 書類の脇へ置いた湯呑みから立ち上る湯気より濃い白を吐き出して、
「また降ってきたのか」
 問うた声は常よりも少しだけ低いけれど、
「はい、今年は多雨のようです」
「そうか…」
 纏う空気は以前よりずっと穏やかな事に、本人は気付いているのだろうか。
 そんな事を内心で思って、傍仕えは微かに口角を上げた。と、外の廊下を聞きなれた足音が近付いてくる。
 その足音が止まると同時に、
「ただいま、三蔵」
 元気な声が響いた。
「煩いぞ、ドアは静か…お前」
「悟空、びしょ濡れじゃないですか」
「あ、え…っと、その」
 深茶の髪の先からは雫が一粒二粒、着ているシャツはたっぷりと水気を含んでその色を濃くしている。そして、悟空の腕には大輪の紫陽花。
「これ、早く三蔵に見せたくて…」
「傘もささねぇで、走ってきやがったな」
「…うん」
 額を押さえたのは怒っている訳ではない、呆れているだけだ。そこに少しだけ優越感を加えて。
 何年時が経とうとも、養い子の最優先は自分なのだと。
「白い紫陽花なんて、ここに咲いてないから。すごいだろ!これ分けてくれた小母ちゃん家は、もっとすごいんだ。三蔵だって見ればきっと驚くぞ!白いのとか赤いのとか、とにかくたくさん咲いてて」
 興奮したように瞳をキラキラさせて話を続けようとする悟空の頭に、背後からふわりとタオルが被さる。
「愁由」
「お話は後にして、先に湯浴みを」
「でも…」
「バカ猿、風邪ひきてぇのか。いいから行って来い」
 有無を言わせない三蔵の一言に、悟空は素直に頷いた。
「さぁ、花は私が」
「うん、頼むな愁由」
 真白の花束を傍仕えに託し、少しだけ名残惜しそうに悟空は湯殿へ向かった。
 その後姿を見送って、すっかり短くなってしまった煙草を灰皿へ押し付けながら、三蔵が小さく息を吐く。
「何年経っても、変わらねぇな」
「それが、悟空の良いところでございましょう。本当に美しい紫陽花です」
 独り言のような傍仕えの言葉を、三蔵は湯呑みをすすりながら聞いていた。




 悟空はこの旅が終わったら、何をしたいですか?
 
 旅が終わったら?
 
 ええ
 
 終わったらかぁ、そうだな〜三蔵とのんびりしたいかも
 
 三蔵と?
 
 うん!温泉行ったりさ、美味いモンたらふく喰ったり
 
 量だけなら、今もたらふく喰ってるじゃねえか
 
 んだよ、悟浄
 
 まあ、のんびりっていうのは僕も賛成ですね

 違いねぇな
 
 だろ―――あとは…
 
 後は?
 
 うん、後はね…―――





 夜半すぎ。
「あ…」
 ぼんやりと開いた金瞳が宙を彷徨う。ゆっくりと焦点があって、それが見慣れた天井だと分かると安堵のような吐息が漏れた。
「起きたのか」
 思いがけず耳を震わせたテノールに、顔を巡らせて悟空は息を呑んだ。
 寝室の窓辺に置かれたカウチに身を預ける三蔵と、サイドテーブルには昼間悟空が分けてもらった白い紫陽花。射し込む月光がそれらを浮かび上がらせ、それが一枚の美しい絵画を思わせるようで悟空は言葉を失った。
 その絵が不意に動いて、キシリとベッドの軋む音。
「どうした…悟空」
 瞳を見開いたまま一言も発しない悟空の枕元に座って、三蔵はその髪を掻きあげた。
「悟空」
 優しい声に再度名を呼ばれて、漸く悟空は、
「ごめん、あんま綺麗で見とれた」
 はんなりと笑んだその顔に、三蔵もまたその紫暗を細めて口角を上げた。
「外、明るいのな」
「望月が近いからな」
「そっか」
 悟空の髪に触れていた三蔵の手がゆっくりと動き出す。伸び始めた深茶の髪を梳いていく指の心地よさに、とろんと瞼を落としそうになりながら、
「さぁんぞ、いっしょに…ねよ」
 舌足らずに甘える声。三蔵は黙って横へ滑り込み、その身の内へ悟空を抱き寄せると金瞳の端に口付けを落とした。
 幸せそうに微笑んだ悟空が小さな欠伸を漏らすと、眠りへ誘うようにその背を三蔵の大きな手がリズムを刻む。
「さんぞ…明日―――」
 紫陽花を見に行こう。
 どうかその言葉が三蔵に届いていますように。祈りながら、悟空は夢の中へ旅立っていった。



 静かな室内に微かな衣擦れの音。
 寝返りを打ってその手がシーツを掻く、弾かれたように悟空はうつ伏せていた身体を起こす。
「三蔵」
 温もりを残して居なくなってしまった人を探す視線が、窓へ向いて止まった。
「あ…」
 ベッドを抜けて早足に移動すると、空を見上げた悟空の顔が歪んだ。
「雨、降ってる」
 鉛色の空から音もなく降り注ぐ銀糸にがっくりと肩を落とし、何だか急に身体の力が抜けてしまって、悟空はズルズルとその場にしゃがみ込み、ぼんやりと庭先で雨に濡れる紫陽花を金瞳に写していた。

「悟空、起きてんのか」
 寝室の扉が開いて姿を現したのは、滅多に見る事のない私服姿の三蔵。
 けれど悟空は振り返る事もせず、視線は窓の外に注がれたまま。三蔵は眉を顰めてその後ろへ立った。
「悟空」
「…雨、降ってる」
 いつになく沈んだ声に思わず苦笑が漏れた。
「梅雨だからな」
 悟空は振り返ると、三蔵の足へ頭を押し当て。
「天気が良かったら、三蔵と行きたいとこがあったのに…」
 小さくなっていく声に膝を折って三蔵は、
「雨が降ってると出掛けられねぇのか、お前は」
「えっ」
「紫陽花は、雨が似合うんだろ」
 悟空を見下ろすのは、穏やかな紫暗。
「見に行くんだろ、白い紫陽花」
「う、ん…うん!」
 一瞬で咲いた悟空の笑顔に三蔵の頬も上がる。飛び付いてきた身体を受け止め、深茶の頭をひと撫ですると、早く着替えろ。と、囁いた。




 旅が終わったら―――

 散歩したいんだ、三蔵と

 雨の中を二人で…

 傘を差して―――





「三蔵、三蔵、帰りにメシ喰ってこう」
「何言ってやがる、雨降ってんだ、見たらさっさと帰る」
 一つの傘に並んで入り町行く二人は、通りすがりの人目など気にする事もなく。
「俺、朝メシくってねえよ」
「そりゃ、てめぇがいつまでも寝てるからじゃねぇか」
「う゛ー、三蔵が起こしてくれないからじゃんか」
 シャツの袖を掴んで頬を膨らませる悟空の幼い仕草に、
「俺を目覚ましに使うなんざ、百万年早ぇよ」
 と、にべもなく言い放った。のだが、悟空は嬉しそうに笑っているだけ。
「何笑ってやがる」
「べ〜つに」
「ふん」

 一人で濡れる雨は凍えるほど冷たいけれど、二人で歩けば、雨だって優しい旋律になる。
 だから雨の日だって、手を繋いで二人で歩こう。

「な、三蔵。すっごい綺麗だろ、白い紫陽花」



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嫌な記憶を呼び起こす雨も、旅が終わればきっと平気(になってくれるといいなぁ)
や、牛魔王討伐後という設定が、この頃やけに気になります。
ちなみに望月(満月)は昨日、6/30でした(汗)
2007/7/1 花淋