酸いも甘いも…


 開け放たれた窓。軒下に吊るされた風鈴が、時折澄んだ音を奏でる。
 が、そんなものでこの暑さが凌げるわけも無く、部屋の主はうず高く積まれた書類の山を前に、眉間の皺を五割増しにして黙々と筆を走らせていた。
 この猛暑では蝉すらも鳴かないのか、執務室と私室を構えた奥向は、常に無く静かな時間が流れていた。
 ふと遠くから聞き覚えのある声が近付いてくる。聞きつけて、更に皺が一本増える。それから暫くして、
「三蔵、ただいま」
「お邪魔します、三蔵」
「こんちゃーっす」
 三人三様の挨拶に返事が返るわけも無く、言った方もそれを気にする風もなく、執務室のいつもの場所へいつものように納まると、円卓の上に大きな包みを置いた。
 そこへ扉をノックする音が響き、少年はいそいそと扉を開く。
「これくらいで足りますか?悟空」
 戸口に立っていた傍仕えが盆に乗せていたのは氷の塊。
「うんと、足りる八戒?」
「ええ、充分ですよ。ありがとうございます愁由さん」
 嬉々として盆を受け取る養い子と、その家庭教師と、その連れ。
 部屋の主の存在を完全に黙殺し、何やら始めようとするのを、黙って見過ごす訳にもいかず、表面上は甚だ不本意だと言わんばかりに、三蔵は筆を置き三人を見据えた。
「ここで何を始めるつもりだ」
 その問い掛けに一番に反応するのは、決まって己の養い子だ。
「カキ氷!」
 即答に暫し沈黙。
 苦く笑いながら八戒が付け足した。
「この暑い最中、三蔵が休みも取らずに仕事をしていると、悟空から聞いたので…」
「まぁ、暑中見舞いというか陣中見舞いというか、そんなとこ」
 八戒の言葉を引き取って、もう一人の付き添い人悟浄が話をまとめた。
「八戒ん家で喰わせてもらったの!すっげー甘くて、冷たくて、三蔵も絶対気に入る」
 悟空のそんな言葉に、
 ああ、そうか。コイツは初めてカキ氷を喰うのか。
 そう思った。
 数年前に拾った小さな子供は、今では三蔵の立場、自分の立場を大分理解するようになった。
 だからという訳ではないが、毎日の忙しさにかまけて、あまり構ってやらなかったのは、隠しようの無い事実だ。
 ならばこれくらい。
 その時の三蔵の中に確かに存在した気持ちだ。それがこの後、大きくなって自分に跳ね返ってくる事は、さすがの最高僧も現時点では、予測不可能のようだった。

 とにもかくにも、悟空、八戒、悟浄のにわか「カキ氷屋さん」はこうして店開きとなった。

「それじゃ悟空、さっき言った通りに少しずつ、器を回してくださいね」
「分かった!」
 室内に響き始める、涼やかな音。
 淡雪のような氷が器の中で小さな雪山を作り出す。
「カキ氷って作るの楽しいな!」
 悟空の楽しそうな声に、三蔵は人知れず口角を上げた。
 真っ白な氷の上に、鮮やかな赤いシロップ。
「はい、三蔵!イチゴ味だよ」
 執務机の前で養い子に差し出された、ガラスの器に盛られた氷菓子。一さじすくって口へ運ぶと、一杯に広がる甘みと冷たさ。
「悪かねえな」
 それが三蔵にとっての好評価であると、もちろん悟空には解っている。そして浮かんだ笑顔は真夏の太陽。
「八戒!もっと作ろ!!」
 養い子の歓声を頭の隅に聞き、三蔵は再び机上に視線を戻した。



「おい、何時まで入ってるつもりだ」
 一日の終わりが近付いてきた時刻。奥向の私室は少々、状況が込み入っていた。
「おい、猿…」
「…だ、って」
 扉一枚を隔てた中と外。
 三蔵は呆れたように脇の壁に寄りかかり、天を仰いだ。今さらながらに、気まぐれに起こした昼間の仏心を呪う。と、
 カチャ―――
「う…ぇ……」
 顔を出したヨレヨレのイキモノ。
「自業自得だ、大バカ猿」
 腹を抱え、年寄りのように腰を屈めてトイレから出てきた養い子を、奈落の底へ突き落とす。
 そう。
 昼間、調子に乗ってカキ氷をドカ喰いした悟空は、夕餉をいつものようにたらふく平らげ、結果。
 今、正に悟空の腹は大オーケストラ状態なのだ。
「ふぁ…また」
 数歩進んで逆戻りを、もう三回繰り返した。
 そうして出てきたその顔色は、痛みの所為で青白く。どうやら、脱水症状まで起こしかけているようで、身体が小刻みに震えていた。
 ここまでくると、さすがに放ってはおけず三蔵は、傍使えの愁由を呼びつけ薬を持ってこさせると、それを手にした傍仕えが、面倒は私が。と言う申し出を、構わん。と、一言で引き上げさせて、未だ腹を抱えて唸っている養い子の枕元へ寄った。
「悟空」
 名前を呼ばれて、悟空の肩がビクンと震えた。
 怒られる。
 そう思っているだろう、少年の思考をあっさりと受け流し、三蔵はベッドの脇へ腰を下ろし、濃茶の髪を撫でた。
「薬だ」
 その穏やかな声音に、悟空の顔が上がる。
「怒ってない…の?」
 恐る恐る聞いてくるそれに、苦笑が漏れる。
「今回だけはな―――何だ、怒ってほしいのか?」
 少しだけ口調を変えてみれば、悟空の顔が僅かに歪んだ。
「度を越すとどうなるか、身に染みただろう」
 再び髪を撫でられると、悟空の金瞳に涙が盛り上がる。
「ごめん…な、さぁい―――ふぇ」
「苦いから嫌だとは、言わせんぞ」
 震える身体を起こし、素直に開けた口の中へ、粉薬を流し込んだ。
 半べそで薬を嚥下した悟空を横たわらせ、その腹へ自分の手を置く。
「さんぞ?」
「じきに薬が効いてくる」
「…うん―――あったかい、三蔵の手」
 白い顔が微かに綻ぶ。目を細めてそれを眺め、三蔵は置いた手をゆっくりと動かし始めた。
「明日は一日、粥だけだ」
 その途端、顔色の変わった悟空に、眇めた視線を向け、
「文句は、無えよなあ猿」
 三蔵の声のトーンが下がった。
「……は、い」
 観念したように、悟空は小さく呟いた。



 落ち着いた寝息を零す養い子を見つめる温和な瞳。
 薬が効いてきた悟空は、漸く痛みから解放され、今は深い眠りの中に居る。
「随分と甘くなったものだな」
 呟いた言葉には、多分に苦い笑いが含まれていた。
 小猿に振り回される毎日。
「手間ばっかり、掛けさせやがって…」
 けれど、手放そうと思った事は、一度も無かった。
 一人の時からは想像もつかないほど、感情を露にする事が増えた悟空との暮らしは、確かに三蔵の中の何かを変えた。
 だからこそ、三蔵には解っていた。
 明日、自分はきっと、公務を放棄するのだ。
 誰あろう、この養い子のために。
「確かに、毎日退屈はしねえがな」
 呟きながらその身を悟空の横へ滑り込ませる。
 僧正への言い訳を考えながら、三蔵は抱き寄せた身体から伝わってくる温もりに、身を委ねていった。



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季節はずれの「カキ氷ネタ」
や、夏の盛りに何気なく浮かんだネタだったんだけど、なかなか書けなくて…企画に入れてみました。
結論は、やっぱり三蔵サマ、小猿には甘い。と…


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