いつだって、喧しいほどに呼ぶくせに…
こういう時は全く聞こえない
だから、余計に気になるんじゃねぇか ――― バカ猿



硝 子 珠



「38.7分…おめでとうございます。どこから見ても、誰が見ても立派な風邪です」
 もはやその厚顔を隠そうともしない、見た目好青年の仲間八戒は、笑顔でそう告げながら、しかしその深緑は、静かな怒りを湛えていた。
「熱が下がるまでは、絶対安静です」
「…んなモン…一晩寝りゃ下がる…」
 力ないその声が発する悪態に、呆れながら八戒は、その人三蔵を見下ろした。
 確か自分には『足手まといは必要ない』と彼は言った。
 唯一心を許す養い子にも『後先考えずに突っ込むな』と宣うその張本人が、ここまで身体の不調を押し隠した(実際には一人だけ、気付いていたのだが)挙句、宿の扉をくぐった途端卒倒したというのに。
「悟空の言う事を聞かないから、こういう事になるんですよ」
「な、んで…この俺が猿の言う事を…聞かねばならん」
 悟空が三蔵の変化に気付いてから、町を二つ通り過ぎた。きちんと休めと言った悟空を、突っぱね続けた結果がこれだ。
 ここまで来ると、プライドや意地うんぬんという問題ではない、ただの駄々っ子だ。
 心中嘆息して、八戒は
「とにかく、熱が下がるまでは、ここに留まりますからね」
 いつに無く厳しい口調で言ったはずなのに、
「下がりゃ、明日出発する」
 憮然と言い放つ三蔵に心底呆れると、八戒は早々に切り札を突きつけた。
「そんなに悟空を泣かせたいんですか」
 怒りを露に言われて、三蔵の脳裏に蘇る悟空の泣き出しそうな顔。
 意識を手放す直前に聞こえた、悲痛な叫び。
「無茶をするのは貴方の勝手ですが、その所為で悟空がどんな思いをするか、少し考えてくださいね。保護者さん」
 皮肉たっぷりの八戒の言葉に舌打ちして、三蔵は身体の力を抜いた。途端に襲ってくる倦怠感。実を言えば、口を開くどころか呼吸するのも億劫なのだ。
 西への足が止まるのも、自分が仲間に醜態を晒すのも忌々しい。
 けれどそれ以上に、意固地になった己の所為で、悟空を悲しませたと言う事実が、三蔵に圧し掛かっていた。

 そうして、観念したのか大人しくなった三蔵に、漸く八戒も緊張を緩めた。
「薬も飲んだし、ゆっくり眠ってください。食事が出来そうなら、スープでも作りますけど」
「いらん…」
 不機嫌そのままに布団をずり上げ八戒に背中を向けようとして、三蔵は思い出したように顔だけを、彼に巡らせた。
「猿は絶対に、部屋へ入れるな」
 その唐突な言葉に、八戒が返事をする間もなく、
「あいつはバカのくせに、直ぐに伝染るんだよ」
 と続け、今度こそ布団を被って、背中を向けてしまった。その姿に八戒は口元に微かな笑みを浮かべて、分かりました。と、呟く。
「お前も用が済んだら、さっさと出て行け」
 言葉に隠された不器用な優しさに、八戒は足音を忍ばせて、部屋を後にした。

「八戒、三蔵は!」
 廊下を挟んだ向かい部屋に戻ってきた八戒に、飛びつくような勢いで悟空が駆け寄る。
「大丈夫ですよ、薬も飲んだしとにかくよく休めば、じきに熱も下がりますから」
 少年の肩をポンと叩いて、八戒は笑った。
「本人は明日には下がると言い張ってますが、あの調子では二、三日は、かかるでしょう」
「あー、だろうなぁ。だぁから、最初から素直に子猿ちゃんの言う事聞いてりゃいいのよ」
 悟空の後ろで、椅子の背を抱くように座っていた悟浄は、ポケットから愛煙を一本取り出すと、かちりと火を点けた。
「ま、鬼の霍乱ってやつ?」
 キシシと笑う悟浄だが。けれど、その灰皿に一本の吸殻も無い事が、悟空ほどではないにしろ、少なからず彼も心配していたと言う確固たる証拠だった。
 それに目を細めて八戒は
「悟空、三蔵の事なんですが…」
 慎重に言葉を選んで三蔵の思いを伝えようと、悟空へ向き直った。
「分かってる…部屋に入るなって言ってんだろ…」
 寺に居た頃からそうだったから…みなまで言わせずに悟空は小さく笑った。
「悟空…でも、それは貴方に伝染さないようにという三蔵の…」
「うん、それも分かってるよ…だから、三蔵の事頼むな、八戒」
 笑う金瞳の奥に、深い寂しさが見えたような気がして、八戒は奥歯を噛み締めた。
「悟空…」
「寂しいなら添い寝してやろうか?子猿ちゃん」
 そんな二人のやり取りの後ろから、妙に明るい声が掛かると、悟空は振り返って飛び掛った。
「誰が寂しいなんて言った!キモイ事言うな、エロ河童」
「んだと、人が気ィ使ってやりゃ…」
 それは悟浄らしい気遣いの言葉だったが。
 瞬く間に始まったいつもの取っ組み合いに、
「もう少し、上手い慰め方は無いんですかねぇ」
 八戒が大きくため息を漏らした。






 翌日。
 案の定、三蔵の熱は下がらず、ベッドの住人はもはや諦めたのか、大人しく宿の天井をぼんやりと眺めていた。
 確かに無理をした。
 その自覚は十分すぎるほどある。人間離れした彼ら三人に対抗しているつもりは無いが、それでも他人の前で弱音を吐くなど、自分には考えられない。
 最高僧『三蔵法師』としてのプライド、三仏神からの勅命、そして何より…己が強く在りたいという思い。
 その全てが、今回は悪循環を生んだ。
「ダセぇ…」
 侮蔑を含む声音。
 霞のかかった頭では、思考までマイナスへ落ちる。
 三蔵は大きく息を吐いて、再び目を閉じた。

 薄いカーテンの向こうから差し掛かる陽光は部屋を暖め、閉じた瞼の裏にちらちらと光彩を放つ。それが彼の少年と重なって、三蔵の中で笑う。
「悟空…」
 はっきりと音になった名前、そういえば声を聞いてないと思った。
 止む事無く自分を呼ぶ声。
 どんな時も、自分だけが聞けるその声を、昨日から一度も聞いてない。それは悟空が意識して呼ばないから。
「だから、バカ猿だってんだ」
 自分を気遣っているのは、痛いほど分かる。けれど、普段と違う事をすれば、その方が却って気になる。 何をしているのか、何を感じているのか。
『悟空を泣かせたいんですか』
 八戒の言うように、泣いているのだろうか…
 逢えないのだから。だからこそ呼べばいいのに、いつもは煩いその声が、時には癒しとなるのに…
「涌いてんな…」
 身体が弱っている時は、心まで弱くなるのか。
 失笑して、三蔵はすっぽりと頭まで布団を被った、無理やり睡魔を追いかけるように、先よりも硬く目を閉じた。


「何だ、もう喰わねぇのか?」
「ん、あとは悟浄、喰っていいよ」
 三蔵が寝込んで四日が過ぎた。熱は大分下がり、食事もするようになって、快方へ向かっていた。が、その三蔵に反比例するように、悟空は元気が無くなり、あの大食漢はすっかりと影を潜めてしまっていた。
 大半の皿に料理が残っているにも関わらず、悟空は箸を置くと席を立ってしまった。
「おや、悟浄一人ですか?悟空は」
「早々にごちそうさま」
 手付かずの料理を前に、悟浄と八戒は深いため息を吐いた。
「で、どうよ三蔵の具合は」
「熱も下がりましたし、あとは落ちた体力がもう少し戻れば、出発できると思いますよ」
「このままじゃ、猿の方が参っちまうぞ…」
「ええ、明日三蔵に言ってみます」
 ここには居ない、けれどどんな顔をしているか、どんな思いでいるか、小さな背中が窺い知れた。

「本当はもう少し体力が戻るのを待ちたいんですけどね」
「これ以上、休んでられっか俺たちは、遠足に来てんじゃねぇんだ」
 手渡された薬を渋々嚥下した三蔵に、いつもの勢いが戻って、八戒は苦笑いを漏らした。それを横目に、三蔵はベッドサイドの煙草へ伸ばしかけ、だがその手を止めた。
「八戒…」
 呼ばれた八戒はじっと、三蔵の言葉を待った。
「…猿は、どうしてる」
 呟くような問い掛けに、彼は淡い笑みを浮かべて、呼んできます。と、三蔵の返事も待たずに部屋を出た。
 一人残された三蔵は、暫くの間八戒の出て行った扉を睨んでいたが、不意にその口元が緩んだ。
「煩せぇ、猿…」
 姿無きその声は、随分と聞いていなかった様な気がする。そうする間に廊下を聞きなれた足音が近付いてくる。それは扉の向こうで止まり、僅かの間を置いて静かに開いた。

「さんぞ…」
 中をうかがう様に入ってきた悟空は、後ろ手に扉を閉めると、その場に固まった。
――― どしよ…緊張する
 ギュッと服の胸元を握って、早くなる鼓動を抑えようとするのに、意識すればするほどそれは早く、大きくなった。
 三蔵はベッドの端に腰掛け、新聞を広げて悟空の様子を眺めていたが、いつまでたっても動かない事に、呆れたため息を吐くと、音を立てて新聞をサイドテーブルに置いた。
 途端に悟空の肩が揺れる。その泣き出しそうな顔に、内心で苦笑を漏らし、ゆっくりと右手を差し出した。
「悟空」
「――― っ…さん、ぞ」
 飛び込んできた身体をしっかりと抱きとめ、鼻を擽る日向くさい匂いに、自然と口角が上がった。
「さんぞ…さんぞぉ…んく…ふぇ」
「ったく、なんて面だお前は、寝てねぇな」
 溢れる涙を何度も拭いながら、眉を顰めたものの声に厳しさは無く、三蔵は小さな頭をその胸へ押し付けた。
「ごめ…な、さい……けど…おれ…」
「ただの風邪じゃねぇか」
「そだ、けど…わか、って…るけ…でも」
 それでも心配だった。
 三蔵に気を使って、彼を呼ばないようにした。けれど、逢えない寂しさと呼べない辛さは、悟空を不安にさせその顔から笑いを消した。夜も満足に眠らず、じっと歯を食いしばった。
 八戒から三蔵が呼んでると言われた時、どんなに嬉しかっただろう。
 顔を見たら笑ってやろう、三蔵も年なんじゃねぇの。くらいは言ってやろう。だけど、本当に顔を見た途端、押し寄せたのは安堵と逢えなかった時の寂しさ。
 名前を呼ばれて抱きしめられたら、涙は止まるはずが無かった。
「さんぞぅ…三蔵」
「我慢なんて、猿には無理なんだ。呼べばいいだろ」
 赤子をあやすように大きな手が何度も何度も、悟空の背を擦った。
「さんぞ……も、平気?…ほんと、に」
「ああ、てめぇの方こそ寝不足だなんつったら、承知しねぇぞ」
 見上げた金瞳に残る涙を指で掬うと、泣き腫れた瞼にそっと口唇を寄せた。そのまま悟空を抱きしめ、ベッドへ横になる。
「さんぞ?」
「寝不足は承知しねぇと言ったろ」
 胡桃色の頭の下に腕を滑り込ませ、抱えるように身を引き寄せる。
 この温もりを自分は確かに求めていた。
「三蔵…」
「悟空」
 名を呼ぶ事が、呼ばれる事がこんなにも心を満たす。
 互いの心音を聞きながら、ゆっくりと訪れた微睡いは、二人を羽のように柔らかく包み込んだ。


 いつだって、呼べばいい。
 その声が、笑顔が、力となる。
 互いを、支えあうほどに ――――








皆様、ご無沙汰です。
2005年「ヘタれ三蔵三連発」第一弾、風邪引きです。
いや、悟空だって風邪引いたんですから、そりゃやっぱり三蔵様もねぇ…
きっとね、悟空は三蔵のことを一番に考えてるから、自分の声で三蔵がゆっくり休めないと、思ってるんですよ(花淋の中では)、寂しいのを一生懸命我慢する悟空が…悟空が…(´□`;)
ま、そんなこんなで、次回は、あーシリアスです。はい、久しぶりの…がんばります!
1/11 花淋拝



オマケ…いつかこの二人もメインに書く日が来るといいなぁ〜


「よく眠ってます」
「一件落着ってとこか」
「そうですね」
 悟浄がぽかりと吐き出した紫煙を追いながら、八戒はふわりと笑った。
「あの調子だと、夜まで起きそうも無いですから、やはり出発は明日ですね」
「あー、んじゃ、ま、久しぶりに二人でデートってのもどうよ」
 にやりと笑う緋色に、深緑の瞳が悪戯っぽく光る。
「いいですよ。僕、悟浄に聞きたいことがあるんです」
「あ?」
 上着を羽織る手を止めて自分を見つめる長身の青年に、
「悟空には添い寝してやろうかなんて言うクセに、僕には一度も言ってくれないの、どうしてなんでしょう悟浄」
 言われて天を仰いだ悟浄だが、すっと八戒の耳元に何かを囁く。
 
 部屋を出た八戒の耳が真っ赤に染まっているを見たのは、その肩に乗る小さな仲間一匹だけ。


『それが当たり前の事なのに、いちいち許可なんかいらねぇだろ…』