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悟空の強さは、誰もが認めるものだ。
ここで言う強さには、二つの種類がある。
身体能力の高さと、精神力。だが、後者は時に諸刃の剣となって、悟空の心を苛む…
その魂が、純粋で在るがために。
そう ———
たとえば、こんな時…俺はあいつと、同じ痛みを分かち合う。
「す、げぇ…」
「本当に…」
眼下に広がる金色の海。
街に辿り付く直前の丘の上で、俺たちはしばしその圧巻な光景に、言葉を失った。
それは、一面の小麦畑。
この辺りは小麦の生産地だという事は、事前に八戒から説明を受けていたが、その規模までは正直誰も想像がつかなかった。
「なんか凄いって言葉しか出ない」
悟空のそれは他者の代弁でもあった。広大な小麦の海は、絶え間なく風をうけて金の波を揺らしていた。
その時、確かに「声」が聞こえたような、気がした。
視線を悟空へ向けると、奴は相変わらずの能天気な顔に、目の前のそれに負けないくらいの金瞳をくるくると動かして、眼下の光景に見入っていた。
自分の気の所為だろうと、煙草を取り出し火を点ける。
「行くぞ」
それでも、気分が苛ついてきたのを、頭の片隅で自覚していた。
その街は桃源郷の中でも、特に活気に溢れた街だった。妖怪の変異と言う恐怖は、常に取り巻いていたが人々の顔は生の輝きに満ちていた。
だからこそ長居は出来ない。
今、自分たちは追われている。それが本位では無いにしろ、ここに滞在すれば、必ず此処へやって来る。それは確信。
「おい、明日の出発は早いぞ」
告げた言葉の、本当の意味を理解した三人からは何の異論も出ずに、隠れる様に宿へ身を落ち着けた。
「三蔵、今日の悟空ちょっと変じゃないですか?」
「何がだ」
目ざとい自称優しい保父とやらは、普段と様子の違う悟空に気付き、だがそれを必ず俺に聞いてくるのだ。
「いつもより静かじゃないですか」
買い物にも付いて来ませんでしたし、食事の時も大人しかったでしょう。
と、続いた言葉に内心で舌打ちした。
「静かなら、それにこした事はねえ」
それだけを答え、ただ奴が河童と違う点は、決して自分の領域を出て干渉してくる事は無いという事。
今回もそれ以上は、聞いてくることをしなかった。が、最後に奴はこう付け加えた。
「悟空、僕は部屋を移りますから、三蔵とこっちの部屋で寝てくださいね」
「え?だって明日の相談はいいの、八戒」
「その話は終わりましたから、一緒の部屋に居る理由が無いでしょう。じゃ、おやすみなさい。悟浄、行きますよ」
言いたい事だけをさらりと言って、八戒は悟浄を伴って部屋を出た。
その姿を唖然と見送る悟空を横目に、俺は眼鏡を外し新聞を放り投げると、ベッドへもぐり込んだ。暗闇が訪れ悟空が灯を落として隣のベッドへ入る気配がした。
「おやすみ、さんぞう…」
返事は、しなかった。
「ぅ…あ……ま、て…まっ…」
「悟空…?」
声を感じてヘッドライトを灯した先に、案の定、顔を歪めた悟空の姿があった。
この状況が予想範囲だったため、さして驚く事でもなかったが、頭に直接響く声がいつもより悲痛さを増したその刹那、
「嫌っだ!…って、待って!!いや…い…」
何か…誰かを追いかける様に、その両手は天へと差し出された。
飛び起きて枕元へ寄って顔を覗きこむと、悟空は瞳を見開いていたが、その目に恐らく俺は映っては居ない。否、悟空の全てがここには無い様な気がした。
——— 連れて行かれる…
頭をそんな思いが駆け巡った。
「悟空、おい…悟空!」
襲い来る焦燥感に俺は無意識の内に、悟空の肩を掴んでいた指に力を込めていたらしい。
「い…たぃ…さんぞ?」
肉体が感じた痛みに、焦点の合わなかった悟空の金瞳が、ゆっくりと俺を捉えた。
——— 戻ってきた…
「…悟空」
「さんぞ、ぉ…」
抱きしめた身体は、血の通った温かさに満ちていた。
どうして…なんて、こっちが聞きてえよ。声を掛けたのも、手を伸ばしたのも俺からなんてな。
だが、それを離す気にはなれず、押し倒すようにベッドへ二人して転がった。
「三蔵…」
悟空の身体から、温もりと一緒に伝わる黒い波動。
どうあっても思い出せない過去の記憶を、魂だけが憶えている。
今夜のきっかけは、あの麦畑だろう…その度に、悟空は傷付いて行く。
——— これが罰なのか。五百年前にしでかした、とんでもない事の…
音の無い呟きのあと、その口角が上がった。
「上等じゃねえか」
「三蔵?」
「寝ろ、明日の朝は早い」
無理やり頭を抱きこんで、背中を撫でてやる。もぞもぞと顔を覗かせ、その瞳は困惑を湛えていた。
「こうしてて…くれる、の?」
「ああ…」
今度は、返事をしてやった。
ふわりと花が綻ぶ。それからいくらもしない内に、安らかな寝息を零しはじめた。そのまろやかな頬を包み込んで、
「付き合ってやるよ…最後まで」
連れ出した責任からではなく、同じ痛みを分かつ者として。
「思い出せなくて苦しんでんのは、お前だけじゃねえんだ」
そう、悟空が過去の記憶に囚われる時、決まって自分は身体を引き裂かれる程の痛みを味わう。
自分にも失くしてしまった記憶があるのだ。
「だがな、それを思い出すつもりも、お前に思い出させるつもりもねえよ」
だから、塗り替えていく。お前の隣に立つのが、思い出せない誰かではなく自分だと…この、俺だと。
「…さんぞ」
擦り寄る身体を抱き寄せて、目を閉じた。
「三蔵、明日は早いって…これ早すぎ、まだ陽も上って…」
「っせーな、黙って付いて来い」
夜明け前の丘を二つの影が行く。そして目的の場所に辿り付く頃、それは始まった。
「んだってんだ…あ」
遥か地平線から昇り行く太陽は、金色の海を創り出す。それは昨日、四人で見た時よりも神秘的で、神聖で、悟空の頬を涙が伝う。
それを優しく拭うのは、その中で最も美しい人。
「三蔵…」
「お前と一緒に、この景色を見たのは俺だ。何があっても、忘れるな」
頷いてその胸に顔を寄せれば、背中に回った腕は強くて温かい。
「忘れない…三蔵と居る事が、俺の全てだから…死んだって、絶対に忘れない」
三蔵の背に腕が回る。
あの日、差し伸べられた大きな手は…
その手を取った、小さな手は…
確かに、互いを手に入れた。
「誰が死なせるかよ…バカ猿」
囁きは、金の風にさらわれた。

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