例えば、こんな時…二人の絆を思い知る。
「腹減った〜」
西へ向かう一台のジープ。その車中で、本日何度目かの(実際、何回なんて数えるのもバカバカしいが…)セリフを背後に聞いて、助手席に座る有髪の最高僧は、眉間の皺を一気に増やした。
「猿…」
地を這う様なその声音に、猿呼ばわりされた少年は、一瞬で凍りついた。
「町に着くまでに、今度その言葉を吐いたら、ぶっ殺すぞ」
その言葉に、ブンブンと音がしそうなくらい頷いて、神妙な顔つきで席に座りなおした少年を、ミラー越しにねめ付けて不機嫌な最高僧は煙草に火を点けた。
そして、車中は重苦しい静けさに包まれ、約束通り町へ着くまで、少年どころか誰一人、口を聞く者はいなかった。
数時間後 ————
「メシーっ!」
無言の脅迫から解放された少年の第一声は、仲間の誰もが想像した通りのものだった。
「煩せーっ!」
怒鳴り声と共に一閃。宵闇に響く、小気味いい音。
「ぶっ殺すって言ったろうが!バカ猿」
「何だよ、町に着くまでって言ったの三蔵の方だろ!」
痛む頭をさすりながら、涙目で抗議すると、鼻を鳴らして無視された。
「八戒〜ぃ、腹減ったよぉ、早くメシ喰おうよ」
だが少年の空腹はピークに達し、仲間内で唯一自分の希望を最優先してくれそうな青年に、甘えた声を上げる。
「そうですねぇ、宿も確保した事だし、美味しい物でも食べましょうか」
八戒は緑玉の瞳を細めて少年を見つめた。
その光景に、不機嫌の度合いを更に上げた三蔵に、いち早く気付いた赤髪の青年悟浄は、自ら蚊帳の外へと逃げ出した。
『八戒の奴、態とやってやがんな』
心の中でそんな事を呟きながら…
「うめぇー、マジこれ激ウマだ!」
そんな言葉と一緒に、テーブルを埋め尽くした料理は、まるでマジックを見ているかの様に消えていく。もちろんタネも仕掛けなく、その小さい身体のどこに納まるのか…年上の連れが呆れる中、パワー全開で全てを平らげた少年は、しっかりと食後のデザートも片付けると、満ち足りた笑顔で腹をさすった。
「ふえー、喰った喰った」
「本当に今日は、特にたくさん食べましたね、悟空」
食後に出されたお茶をすすりながら、八戒は人の良い笑みを悟空へと向けた。
「おう、このホイコーローはマジに旨かった」
空っぽの大皿を指差し、太陽の様に笑う少年のそれは、どんな時でも心和む事にかわりはなく、八戒と悟浄はやれやれといった表情で、悟空を見ていた。
その夜、久しぶりの宿で深夜までカードに興じていた四人だが、さすがに日々の疲れからか悟空が最初にリタイアし、のそのそとベッドへ潜り込むといくらもしないうちに寝息を立て始めた。そんな彼の寝顔を微笑ましげに眺めていた八戒の後ろを、嗅ぎ慣れた紫煙が通り過ぎていこうとした。
「三蔵、こっちの部屋でなくて良いのですか」
「どっちで寝ようと、同じだ」
昼間と変わらず、不機嫌な声で吐き捨てると、ドアの向うへ消えていく。その後ろ姿を見送り、ややあって悟浄に向き直ると、
「あれは、相当怒ってますね」
どこか愉しげに呟いた。そんな相棒に、悟浄は大きくため息をついた。
「八戒、たのむから三蔵で遊ぶのやめろよ」
とばっちり食うの、俺なんだからよ。と、げんなりとした緋色の視線を正面から受けて、しかし八戒は動じた風も無く、にっこりと笑った。
「だって、愉しいじゃないですか。このところお客さんも来ないですから、いい緊張感だったでしょう」
「勘弁しろよ…今夜はお前が、あっち行けよな」
眉をハの字に下げた顔でドアを指差され、八戒は、はいはいと席を立つ。通りすがりに、悟浄の赤い髪へ口付けをひとつ落とすと、おやすみなさいと隣へ消えた。
残された悟浄は暫くの間、八戒の消えたドアを眺めていたが、
「俺様って、フビン…」
呟いて、部屋の明かりを落とした。
引きつるような声を聞いたような気がして、悟浄は意識を浮上させた。部屋は窓から射し込む月明かりで仄かに明るく、彼は身体を起こさずに薄く眼を開け周りを見渡した。
別段変わった所もなく気のせいかと思って、逃げていく睡魔を追いかけようとした時、隣のベッドがきしりと揺れた。
「猿?起きてんのか」
返事は無く、寝返りでも打ったのだろうと結論付け、再び瞼を閉じようとして今度ははっきりと聞こえた声。
「……っ、イテぇ」
痛いと、確かに聞こえた。
普段どんなにレベルの低い争いをしても、悟空もまた大切な仲間である事に、変わりはない。悟浄は起き上がり、悟空の枕元へ静かに歩み寄った。
「おい、猿。どこが痛てえんだ」
「……ハ、ラ…」
搾り出すようなその言葉に、そりゃ、あんだけ喰えばなぁと思ったが、今は口に出さず仕方無しに別の言葉を掛けた。
「痛てえだけか?」
苦しそうに頷く悟空に、待ってろとだけ言って隣へ向かおうと歩き出す。八戒を起こして、薬でも飲ませときゃいいだろ。そんな事を考えながら、ドアノブに手を掛けようとして、一瞬早く自分の方へドアが開いた。
「おあっ!」
薄暗い廊下に立つ人影が、のそりと入ってくるのを、驚いた様に見つめる。
「さ、三蔵…」
自分には一瞥もくれずに悟空のベッドへ向かい、三蔵はその布団を半分めくり上げた。
「喰いすぎだ、バカ猿」
「さんぞ…」
枕元に腰を下ろし、脂汗の浮かんだ悟空の頬を包み込む三蔵を、悟浄は呆然と眺めていた。
「悟浄、八戒を起こして、薬を貰って来い」
三蔵の声に我に返り、悟浄は慌てたように隣へ向かった。程なくして薬を持って現れたのは八戒で、その後ろから入ってきた悟浄が、開けっ放しのドアを静かに閉めた。
「悟空、薬を飲みましょう。起きられますか」
三蔵の手を借りて起き上がった悟空は、八戒から薬を受け取りやっとの思いでそれを嚥下すると、身を縮ませて襲い来る痛みに堪えた。
「食べ過ぎだけでしょうか?」
「何とも言えんな。朝になっても痛みが引かないようなら、医者に見せた方がいいだろう」
三蔵の答えに無言で頷き、そのまま苦しげに眉を寄せる悟空を、痛々しげに見つめた八戒が、口を開こうとした時。
「さん…ぞ…」
「ここに居てやる、心配するな」
「ん…」
その安心しきった顔を見て、何も言えなくなった。
三蔵の背後にいる八戒に、彼の表情は見えない。けれど、悟空の顔を見ればそれは一目瞭然で、必要以上に人との接触を嫌う最高僧が、悟空だけは決して手の届く範囲から外へ出さない事が、今さらになって不思議だと感じた。
「八戒、悟空は保護者に任そうぜ」
「そうですね…」
引き下がるしかない…ですね。そんな、少しだけ苦い気持ちを隠して、八戒は後をお願いします。と、悟浄と共に隣へ戻っていった。
二人が部屋から消えると、三蔵は悟空の隣へ横になり、痛む腹へ手を置いた。
「薬が効いてくるまでだ」
「ごめん…さんぞう」
「これに懲りたら、少しは考えて喰え」
「うん…」
三蔵の手がゆっくりと悟空のお腹をさする。片肘を立て、自分を見下ろす彼の法衣をきゅっと握り、悟空は眼を閉じた。
暫くして、寄せた眉根が少しずつ緩み、薄く開けた口唇から寝息が零れ出すと、三蔵はその身体を抱き寄せ自分も眼を閉じた。
隣部屋へ戻った二人は、ベッドへ入ってもなんとなく眠る気になれず、ボンヤリと暗い天井を見つめていた。
「さっき…」
沈黙を破ったのは悟浄だった。八戒は動かず彼の言葉に、耳を傾けていた。
「お前を呼びに行こうとして、ドア開けたら三蔵が立ってた」
正確に言えば、ドアを開けたのは三蔵だが、わざわざ言わなくても八戒には通じているだろうと思た。ややあって、八戒が返した。
「三蔵が悟空を見付けられたのは、悟空の声が聞こえたからだって、言ってましたよね」
さっきも聞こえたんでしょうか。そう続けて、悟浄へ向き直った。
「僕は、三蔵が起きた事も知りませんでした」
「そりゃ、俺だってきっと気付かないって」
労わる様な悟浄の口調に、八戒が小さく笑った気配が感じられた。
「僕らには無い、絆ですか…」
「だな…でもよ、そんならもう少し素直になれねーもんかね」
八つ当たりされる、俺の身にもなれって、と続けた悟浄の言葉に、今度こそ八戒は微かな笑い声を上げた。
「まぁ、彼ららしいと言えば、それまでですけどね」
その言葉に、やってられねえとばかり吐いた悟浄のため息は、薄暗い部屋でやけに大きく聞こえ、八戒も釣られて苦笑を漏らした。

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