どんなに望んでも、それは手に入らないと思ってた。
 格子に切り取られた夜空に浮かぶ白金の光。
 だから嫌いだった―――― 一人ぼっちで見る…月は。



― 月 天 心 ―



 いつまでも暑いと思っていた大気が、いつの間にやらしっとりとした潤いを含んで、それぞれの頬を撫でていく。
 普段であれば頭痛を招くような車中の騒ぎが、今日に限って平和な時間を生み出していたのは、単に相方の一人が夢の住人になっている事と…その隣が常のように、精神年齢が少年と同じ赤髪の青年ではなく、有髪の最高僧だから。
 事の起こりは数刻前にさかのぼる。



「ったくよ!夜くらい静かに寝かせろってーの」
「寝込みを襲う割りに、ムードが無いですよね」
「無駄に、ハラ減るだけじゃん…ふぁ〜、ねむ…」
「呑気にあくびなんかしてんじゃねえよ、バカ猿」
 けして平坦ではない西への道のり。
 毎日、柔らかいベッドで眠れるわけも無く、星空を見ながら大地に横になる日も少なくない。今日もそんな一日だった。
 簡単な夕食を済ませ、巻きつけた毛布が疲れた身体を温めた頃、静寂を裂いて現れた招かれざるモノ。
 不意打ちを狙ったつもりの襲撃を、あっさりと返り討ちにして、けれど気付いてみれば四人はバラバラの場所に立っていた。

「三蔵ーっ!うぅ、みんなどこ行ったんだよぉ…」
 夢中で動き回っていた悟空は、最後の敵に止めを刺し辺りを見回したが、仲間の姿はどこにも見えない。近くに気配すら感じず、呼びかけにも返事は返らない。風が出てきたのか、木々の葉を揺らす音がやけに大きく聞こえた。
「さん、ぞぉ……はっかい…ごじょぉ」
 足元を照らすのは、木立の間から差し込む月明かりだけ。人並み以上の視力を持つ悟空だから、歩く事に不自由は無いけれど、なんだか今日は一人が心細い。
 散々迷って、結局悟空は仲間の姿を求めて、森を彷徨いだした。
「ハラ減ったなぁ〜みんな、どこに居んだよ」
 とぼとぼと歩き続け、何度吐いたか分からないため息の後、不意に目の前が広がった。
「あ、れ…」
 森を抜けたそこには、夜空に在るはずの月が地上に降りて来ていた。
「すげー!鏡、みてぇ」
 波一つ立たない水面に白く浮かぶ満月。近寄って覗き込む、あまりに綺麗なその姿が自分のよく知る人と重なった。
 途端に押し寄せたのは、一人ぼっちの不安。じわりと熱くなった鼻の奥、こみ上げて来たものを飲み込んで、湧き上がったそれが零れないように顔を上げた。
 けれど、頭上のそれは湖面より尚、真白に輝いて、
「さんぞ…」
 耐え切れなかった銀糸がすぅっと、まろい頬を滑り落ちた。


「居ましたか」
「ダメだ」
「どこへ行っちゃったんでしょう」
 バラバラに仲間を探していた八戒と悟浄が合流して、その直ぐ後に三蔵が森の奥から一人で出てきた。
 無事を確認しあい、悟空だけが戻らない事に、思わず苦笑が漏れる。
「ったく、どーしてああ、方向オンチかねえ小猿ちゃんは」
 悟浄のそんなぼやきと共に、三蔵を残して再び森へ分け入った二人。だが、戻ってくれば其処に三蔵の姿は無く、十分長い煙草を踏み消した跡だけが残されていた。
「三蔵に任せておけば、見つかるとは思いますけどね…」
「まぁ、な…」
 そう呟いて小さく息を吐いた二人の影を、中天の珠月が長く伸ばしていた。

 静寂の中に草を踏む音だけが響く。
 敵を片付け森を抜ければ、其処に悟空の姿は無かった。探してきます。と、歩き出した二人の背中を眺めながら、懐から出したそれに火を点ける。一息吸い込んで、彼は露骨に顔を歪めた。

 三蔵っ!――――

 声にならない叫びに胸を抉られ、たった一度吸い込んだ煙草を地へ落とす。
「バカ猿が…」
 確かな足取りで歩き出すその歩調が、普段よりも速い事には気付いていなかった。


 一人になる事を嫌がる子供は夜をとても恐がり、特に月の明るい晩は一人で眠る事も出来ないほど怯える。
 今もそれは変わらない。今日のように雲ひとつ無い満月の夜は、必ず三蔵の寝所へ潜り込んできた。
「くそったれ」
 呼ぶ声は止まらない。
 夜を恐がり月に怯えてすすり泣く声。その声だけを頼りに、三蔵は歩を進めていた。

「さんぞう…何処だよぉ」
 膝を抱えて顔を埋め悟空はただ、大切な人の名を呼び続けていた。
 地上を照らす銀月がただ恐かった。
 三蔵と出逢って、二人で見る「月」が本当は優しい事を知った。
 八戒や悟浄と出逢って、「お月見」という楽しいイベントを教わった。
 それなのに、今その月を見る事が出来ない。このまま月光を浴びていたら、身体が融けてしまいそうになる。
「さん、ぞ…早く、来…て……さん…ぞぉ」
 肩を震わせて、止まらない嗚咽だけがいつまでも響いていた。

 確実に大きくなる声無き声。迷いの欠片も無く、三蔵は走っていた。
 そして漸く見つけたのは、蹲って光から顔を背ける小さな身体。嫌いだと言う暗闇に逃げ込んで、そして…闇に震えていた。
 微かに弾んだ息を整え、三蔵はゆっくりと悟空に歩み寄って、そっと震える肩を抱いた。その途端、腕の中の身体が跳ね上がり、それを宥める様に背中に回した手を静かに動かした。
「…悟空」
 耳元に柔らかい声が下りる。もそりと動いて細い手が、三蔵の背をきつく掴んだ。
「さん……ぞ」
 応える代わりに、深くその身体を抱きこんだ。
 凍えてしまった心を暖めるように、髪を撫で濡れた頬に何度も口唇を押し当てた。



 近付く二つの足音に、待っていた二人の顔が安心したように綻ぶ。三蔵と悟空が辿り着くと、すでに出発の準備は整っていた。
「がんばれば、昼前には街に着けますから」
 そう言って八戒は笑い、悟浄は常とは違い助手席に身を置いていた。三蔵は一度だけ悟浄を睨み付けたが、何も言わずに後部座席へ乗り込んだ。それを見た悟浄の普段であれば揶揄いの一つも出るはずだった、その顔に浮かんだのは苦笑いだけ。そして八戒は手にしていた毛布を、悟空へ差し出した。
「さ、悟空」
「…ぅん」
 渡された毛布を巻き付け、大人しく三蔵の隣へ腰掛けた。

「まだ…不安か」
 暫くして呟かれたテノールに悟空の金瞳が揺れ、三蔵の法衣を握っていた手に力が篭った。
「さんぞ…」
「お前のそのデカい目は節穴か?この手は何を掴んでいる」
 厳しくは無い口調だが、一つ一つの言葉が悟空の心を震わせる。
「見えない不安を感じる前に、見えるものを信じろ。お前はもう…一人じゃないだろう」
 その途端、悟空が息を呑んだ。三蔵を見上げ、次いで感じた視線に顔を動かす。
 ミラー越しに向けられた、翡翠と緋色の優しい眼差しに、とくん。と悟空の心臓が音を立てた。
「一人じゃ…無いんだよ、な」
「そうですよ、悟空」
「んだな」
 二人の言葉に泣き笑う悟空の頭を、三蔵は何も言わずに引き寄せた。

 背後の空が白み始めた頃、三蔵の胸に身体を預けた悟空が小さな寝息を紡ぐ。そこに不安の翳は見えず、在るのはいつもと変わらない、歳不相応な幼い寝顔。目覚めたら、きっといつもの日常が戻ってくる。
「悟空が起きたら、久しぶりに美味しいものでも食べましょうか」
「いいねえ、ついでに美味い酒も付けようぜ」
「奢りだろうな」
「またまた、三ちゃんてばカタいのは、アレだけにしようぜ」
「死ね…」
 際どい会話に苦笑いを浮かべながら、前方に見え始めた街影に、八戒は少しだけ強くアクセルを踏み込んだ。



copyright(c)karing/Reincarnation_2005




 中秋の名月…には程遠い話になりました。
 やっぱりね、満月を見て不安になる悟空を、三蔵なりの優しさで包み込む。っていうのが頭から離れなくて・・・
 お気に召しましたら、お持ち帰りくださいませ。
 サイトアップもご自由に・・・していただければ小躍りして喜びます。
2005/9/18 花淋
配布は終了です。お持ち帰りしてくださった方、ありがとうございます(ペコリ)


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