優しい夜



 意識の遥か水底で音を聞いた。気がした――――

 空気の泡が生まれそれが水面を目指す様な緩慢さで、悟空はゆっくりと瞳を開け、瞬きを繰り返しながらその面を窓辺へと向ける。
 半身を起こして床に足をつければ、ひんやりとした感触。
 足音を忍ばせてテラスへと続くガラス戸を、そっと一人分開いて一歩を踏み出すと、さっきよりもはっきりとした冷気が悟空を包み込んだ。

 人々が活動を始める前の、深い静けさの中。世界中で自分一人だけのような錯覚に、無意識に己を抱きしめる。
 目覚める前に見ていただろう夢は、霞の先にあって憶えていない。
 ため息を一つ。顔を上げて空を見れば、まだ濃い藍色の中に光る星々。その一つ一つに出逢った人の顔が重なる。
「愁由……元気でいるかな」
 三蔵の傍仕え。唯一自分を可愛がってくれた僧徒は、西へ旅立つ朝、悟空を抱きしめ泣いてくれた心優しい人。
「愁由、俺は…俺も三蔵も元気だよ」
 この声が、万里を超えて届けばいいと願った。


 無数の星の中一際輝く黄金(こがね)の月に、悟空は微かにその口元を緩めた。
 一人で見上げる月に心がざわめかなくなったのは、悟空自身が漸く自分の背中に仲間の存在を感じ取れるようになったからだ。そのことが嬉しくて、心の中でそっと「ありがとう」と呟いた。

 時の流れは不思議なものだと思う。
 昏い闇の岩牢で、光を望み続けた日々。差し伸べられた手と光明を掴んで、明るい陽の元へ出た途端、背後からひたひたと近づく闇に怯え、永い時を過ごしたはずの一人ぼっちにも耐え切れず――――
「泣いてた…だけだった」
 三蔵だけを求め彼だけに縋った。
 そう。出逢った時から、三蔵の態度は何一つ変わらない。
 坊主のクセに酒は飲む煙草は吸う。口癖は「殺す」「死ね」(これは悟空が僧侶とはどうある者かを後から理解したからだが)そんな、傍目から見れば横暴極まりないはずの三蔵は、けれど悟空の心を孤独にすることは無かった。
 仕事で共に居ることが出来なくても、けして悟空の心から灯火を消すことは無かった。
 真夜中に三蔵の寝所へ潜りこむ悟空を拒む事をせず。少年が何を言わずとも、その心に悲しみが溢れているときは傍を離れる事もなかった。
 三蔵の優しさは柔らかい真綿のようで、感触も重さも感じられなくても、いつも悟空を包み込んでいた。
「三蔵が居てくれたからだよ」
 闇に向かっていく勇気を持てた。ただ、怖いだけの夜空が月夜が、星の瞬きが美しいものだと思える様になった。
 月明かりが温かい。
 全部、三蔵が教えてくれた事。彼は孫悟空という肉と骨に、生命の息吹を吹き込んでくれた。
 優しさを押し付ける事も、生き方を矯正する事も無く、たった一言。

――――お前が正しいと思うことをしろ

 涙に濡れた悟空の頬を撫でながら、穏やかな声で届けられたその言葉、それはきっと自分の原点。
「だから今、俺はここに居る」
 ゆっくりと冷たい空気を胸いっぱい吸い込むと、それが温かい力となって全身を巡っていくのが分かる。
「ありがとう」
 言って悟空は忍び笑いを漏らした。今のは誰に向けて言った言葉だろう。そして夜空を見上げる。そろそろ部屋に戻らないと、身体はすっかり冷えてしまったみたいだ。
 来たときと同じように、そろりそろりと室内に入り戸を閉める。その時じっと、こちらを見つめる者と瞳が合った。
「さんぞ…」
 横向きに寝転んで立てた肘に頭を乗せ、三蔵は咥えていた煙草を灰皿へ押し付けた。
「ごめん、俺、起こしちゃった」
 悟空の慌てた声に「別に」 と素っ気無く答え、立ったままの彼を見つめる紫暗が少しだけ緩むと、
「落ち着いたか」
 数瞬、何を言われた分からなかった。けれど、悟空はその顔に淡い笑みを浮かべて首を縦に振った。
「そうか、なら寝るぞ」
「うん」
 何も聞かない。それが三蔵の優しさだ。
「うん」 もう一度頷いてベッドへ戻ろうとした悟空を三蔵が呼んだ。
「こっち来い」
 ああ、その言葉はとても嬉しいけれど。悟空は首を今度は横へ振った。
「俺は大丈夫だよ三蔵」
 強がっている訳ではない、本当に今は大丈夫なのだ。自分を包み込む三蔵の想いが心を軽くしているから。それでも、常に悟空の上を行くのが、三蔵という人なのだ。
「バーカ、心配なんかしちゃいねえよ」 予想外の言葉に、それならと何か言いかけた悟空に暇を与えず、
「心配なんかしてねえ…ただな、その冷え切った身体で風邪でも引かれて、足止めを食うのは真っ平なんでな」
 悟空は困ったように笑った。もう、本当に三蔵には敵わない。そして、断る理由も思いつかない。
 素直に三蔵の横へ滑り込んだ。
「あったかい」
「冷てえ」
 真逆の言葉を呟きながら、ぎゅっと互いの身体を抱きしめあう。
 温かい方から冷たい方へ熱が伝わるように、悟空の中に三蔵の優しさが流れ込んでいく。
「三蔵ありがとう…―――大好きだよ」
「何度も聞いたな」
「うん、これからだって何度も言うから」
「安売りか」
「三蔵だけにだよ」
「当たり前だ」
 そんな会話をして、口づけを交わしていく。啄ばむように何度も、何度も。
「三蔵…す、き」
 そして両の瞼に落とされた口付けの後、すぅっと悟空の呼吸が安らかになる。
 あどけないその寝顔を見つめながら、三蔵はテラスに立つ先ほどの背中を思い出していた。
 本当は悟空に起こされた。正確に言えば、彼の声なき声に。
 ただ頭に響くその声に、不安や悲壮感を感じなかったから放って置いたのだ。
 悟空は強くなった。普段、成長してないとハリセンを振るってはいても、悟空の変化に一番敏感なのは自分だ。何しろ「声」はその姿が見えなくとも、三蔵に語りかけるのを止めないのだから。
「お前は、お前が信じた道を行け」
 柔らかい濃茶の髪を撫でれば、悟空の顔に浮かぶ安らいだ笑み。
 この腕の中の存在に、何度救われたか知れない。
「礼を言うのは俺のほうだな…」
 柔らかい笑みをたたえて、眠る悟空の口唇に重なった後、その耳元に言葉を囁く。
 聞こえているはずは無いのに、悟空の表情に幸福の色を見て、三蔵も瞳を閉じた。

 この出会いは、偶然でも奇跡でもない。
 二人が出会うのは必然だったと、互いの心が解っていた。






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7周年ですねぇ
あーっという間でしたねえ…
この頃は更新もままならず皆さんにも、ご迷惑やご心配をかけまくりですが、本日無事に7歳のお誕生日を迎える事が出来ました。
感謝、感謝、感謝です!「ありがとうございます」以外に思いつかない。。。
数あるサイトの中から、拙宅を訪れていただいた全ての方に、Happyが降りてきますように。

本当に、ご支援ありがとうございました。そして、これからも、よろしくお願いいたします。

2010年11月19日 花淋拝

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