青空と僕と貴方
ゆっくりと流れていく雲を瞳に映して、悟空は草原に寝そべっていた。 穏やかで、時間さえものんびりと時を刻んでいくような、ある日の午後。時折、悪戯な風が草木を揺らし、重なるように鳥がチチチと歌った。 「ホント、のんびりだよなぁ」 誰に言うでもないその言葉もまた、風に乗った。 不意にその右手を空へかざした。 握って開いて、また握って。それからゆっくりと開いて、顔に近づける。よくよく見れば細かい傷跡が無数にある以外、他人と何ら変わりのない自分の右手。 「随分薄くなったな…」 また一人呟いて、身を起こした。 その時、サァーっと、風が草原を滑りながら、伸び始めた悟空の後ろ髪を撫でていった。 半年前―――― 西への旅が終わった。 牛魔王の蘇生は阻止したけれど、それが勝利だとは思えなかった。 妖怪の暴走が治まって喜んだのは人間だけで、完全に「悪」というレッテルを貼られた「人ならざる者」達は、いつしか人間の世界から姿を消していき、日が経ち季節が巡っていく度に、自分の中の小さな澱みが濃く深くなっていくのを、悟空ははっきりと感じていた。 三仏神の勅命を成し遂げた玄奘三蔵の一行を、人々は最大級の賞賛と感謝と畏敬を持って迎え、凱旋の慶賀は桃源郷中を席巻し、何処へ行っても彼らの周りには賛辞の言葉が溢れていた。 「でも三蔵、人が大勢居んの大嫌いだし」 半年経っても三蔵と悟空が住まう寺院には、ひと目でも最高僧の尊き御姿を拝もうとする人並みが後を絶たず、近頃の三蔵はその熱狂を嫌って、朝の勤めが終わると私室のある奥向に引き篭もる毎日が続いていた。 「八戒や悟浄は、どうしてんのかな…」 彼らとは、あれから数度しか会っていない。 親しい傍仕えの話によれば、やはり街では大変な歓迎ぶりだったらしいが、今では落ち着いた生活を送っているらしいとの事だった。 そして悟空は深く息を吐いた。 お前はいつまで、ここに居るつもりだ 一人の僧正の言葉が、重石のように圧し掛かっていた。 ある意味、それは図星だった気もする。ただ、三蔵とその事で面と向かう勇気がないだけ。 自分はここに居ても良いのか。 この先も、三蔵と共に生きる事が許されるのか。 「っ…い、て」 どんなに考えても出てこない答えに、ギュッと左胸を抑える。風の音も鳥の声も遠のいて、悟空の身体がぐらりと傾いだ。 「だりぃ…」 呟いた悪態に応える者も声もない。 窓辺に置かれたカウチに身を預けたまま、三蔵は煙草を咥えていた。 時折吹き込む風が彼の金糸を泳がせるだけの無音な空間で、ゆっくりと紫煙を吐きながら、半年前には考えられないほどの穏やかで閑寂な毎日に近頃では違和感を覚えて、眉間の皺は深くなるばかりだった。 牛魔王は倒した。師の形見も取り戻した。 それなのに達成感を感じたのはほんの一瞬で、三仏神への報告を済ませ斜陽殿から戻ってくると、三蔵は一切の執務を放棄した。 三蔵殿の凱旋はまこと喜ばしい事だが、何故あ奴まで戻って来たのだ。西の妖怪共々三蔵殿が始末したと、思うておったのに よもや生きて戻るなど、ゆめゆめ思わなんだ 旅に出る前も戻った後も、ここは何一つ変わっていない。 密かに囁かれる養い子への誹謗。ひと月ほど前からは、それに三蔵への批判も加わっていた。 言いたい奴には言わせておけばいい。 いつか悟空に言った言葉。 それでも悟空には言葉一つ一つが小さな棘となって、いくつも心に残っている事だろう。 「面倒くせぇな」 口に出した言葉は本心だ。だが、向ける相手は養い子ではないと分かっている。 もうずっと以前から自分の気持ちは一つで、何かが起こる度にその想いは深まって強くなっていくのに、言葉に出来ない。そんな自分の態度が悟空を悲しませているという自覚も、もちろん持っていた。 このままではいられない。 牛魔王討伐を達成した今、悟空が自分の下に留まる理由が無い。 真に自由となった彼が世界へ羽ばたきたいと言えば、三蔵にはそれを止める事は出来ないのだ。たった一つの方法を除いては… 風が三蔵の金糸を揺らす。 ゆっくりと立ち上がって、青空の下へ一歩踏み出した。 木漏れ日の中を無言で目指す。 拾った頃から悟空は執務室を抜け出す三蔵を探す事が上手だった。そして同じように三蔵にも、自然の中を飛び回る悟空を見つけ出すのは、容易い事だった。 林を抜け小川を越えて広がる草原の中に寝そべる養い子を遠目に見つけた時、その口元には確かに薄い笑みが浮んでいたのに、一歩近付くたびにいいよう無い不安が三蔵の中でのそりと頭をもたげ出した。 「猿…」 掠れた声は届かない。駆け寄ってその身体を抱き上げた時、三蔵の顔が歪んだ。 「ご、くう」 白い顔と細い手首。 人の五倍や十倍の食事を軽く平らげているはずなのに、旅をしていた頃よりはるかに軽い身体。 「何、やってんだ…お前―――おい、起きろ悟空……バカ野郎、目を覚ませ!」 風が三蔵の叫びをさらった。 「な、に…」 眠り続ける悟空の枕元で、三蔵は医師から聞かされた診断に耳を疑った。 「ご心配には及びません。ただの栄養失調ですから」 「栄養失調…だと」 「さ、三蔵様」 「いい…世話を掛けた」 聴診器を握る手にじんわりと汗が滲む。やっとの思いで医師は片付けを済ませると、逃げるように部屋を出た。 後に残った三蔵は悟空の寝顔を見下ろしながら、深いため息を零すとベッドの端に腰を下ろして、胡桃色の髪をそっとかき上げた。 夜、眠れていないのは知っていた。何かに悩んでいる事も。だが子供ではないのだからと放って置いた。悩んで悩んでそれでも答えが出なければ、いずれは自分のところへ来るだろう。と、高を括っていたのが大きな間違いだった。 栄養失調の原因は、量ではない。恐らく食べた先から吐き出していたのだろう。 こみ上げてきた怒りは気付いてやれなかった自分に向けられ、拳を握り奥歯を噛んだ途端、口の中に錆びた味が広がった。 「ふ、ぁ…」 照明を落とした部屋に吐息が零れ、悟空がぼんやりと金瞳を開いた。ゆっくりと視線をめぐらせ、最後に右横へ瞳が移ってくるとその刹那、石のように動かなくなった。 何も言わず、ただじっと自分を見つめる紫暗。一切の感情を見せないその瞳に射抜かれたように、悟空もまた何も言えずに三蔵の顔を見上げていた。 見つめ合っていたのが一分なのか一時間なのか。ふわりと悟空の頬を暖かいものが包んだ。それが、三蔵の手だと悟空が気付いたのと同じくして、 「何を…悩んでいた」 怒りの無い穏やかな声音に、悟空の視界が滲んだ。 「ごめ…な、さい」 頬と枕を濡らす涙が止まるまで三蔵は何も聞かずに、だまって養い子の涙を拭っていた。 「俺…このまま三蔵と一緒に居て、いいのかな」 それは幾度となく悟空の口から発せられた問い掛け。 辛辣な言葉に傷付く度に、妖怪を恐れる人間に会う度に、人間を憎む妖怪を倒す度に。 そして――― 己の中に流れる異形の血を感じる度に。 悟空の問い掛けに、三蔵の応えはいつも同じだった。 「それはお前が決める事だ」 けれど、今度ばかりはその一言が言えなかった。 もし悟空が、ここには居たくないと言ったら。 自分はその手を離してやる事が出来るだろうか――――答えは、否。だ。 呼ばれ続け、探し続けて見つけた手を、掴んだその手を放すなど、あり得るはずが無い。 その瞬間、心の中ですとんと何かが落ちたような気がした。 キシっとベッドが小さく軋んで、立ち上がった三蔵が部屋の隅の戸棚を開けた。取り出したものを持って悟空の元へ戻ってくると、 「起きて開けてみろ」 素っ気無く呟いて布団の上へ放り投げた。 のろのろと起き上がった悟空は、紙袋の封を切って中を覗きそれを逆さにして中身を掌へ乗せると、驚いたように三蔵の顔を見上げた。 「これ…」 「旅が終わったから、また伸ばすんだろ」 見下ろす三蔵の顔はとても穏やかだ。 ――――三蔵、三蔵!俺、旅が終わったらまた絶対に、髪伸ばすからな! ――――勝手にしろよ 「覚えてて…くれたんだ」 「偶々だ」 金の房飾りが付いた結い紐が、涙に霞んでいく。そして何かを思い出したように、悟空の瞳が揺れた。 「約束…」 ――――勝手にするよ!でもさ… ――――なんだ ――――伸びたら、髪結うのは三蔵がやってくれる? ――――……気が向いたらな すっと三蔵の瞳が細くなった。 「俺は…出来ない約束をした覚えは、ねえぞ」 仄苦い煙草の香りが悟空を包み込んだ。温かい腕に抱きしめられて、凍えていた悟空の心が溶けていく。 「さんぞ…三蔵…」 温もりを求めていたのは、三蔵も同じ。 「ここに居ろ。何があっても、離れるな」 「うん、うん」 本当は初めから分かっていた。離れるなんて出来る訳がない… どんなに手を伸ばしても届かなかった光の中から、差し伸べてくれた彼のその手を掴んだ瞬間、悟空のすべては命さえも三蔵のものになったのだから。 「どこも、行かない…ずっと、さんぞと……生きて、く」 この胸は、いつだって悟空の還る場所。するべき事は、三蔵の想いに応え続けていく事。三蔵を想い続けていく事。 涙に濡れてしまった頬を、三蔵の口唇が滑っていく。口付けを繰り返すたびに上がっていく熱は、情欲ではなく慈愛。隙間なく抱き合ったまま共に横たわって、一瞬でも離れたくないとばかりに口唇を合わせて。 長く熱い抱擁の中、微かな囁きが悟空の耳を掠める。 「悟空…―――お前の、ものだ」 初めての告白を受けて、愛し子の顔に浮んだ至極の笑みを、三蔵は深く心に刻み込んだ。 copyright(C)Reincarnation_karing/2007
照れ屋の三蔵は、最後の告白もやっぱり「俺は」とは言えないようです(笑) 久しぶりのデロ甘にプチシリアス。。。 や、書いてる間は楽しかったデス(*^_^*) いつもの通り、持ち帰りサイトアップはご自由にドウゾ! よろしければ、一言を(ぺこり) 2005/5/9 花淋拝
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