「さんぞ…いまの…なに?」
1st.Lesson
最初は…ああ、猿が泣き止まなかったからだ。うるせーから、口を塞いだ。
「猿!今日という今日は、許さねえからな」
唯でさえ、ウザってえ説法で苛ついてんのに帰院した途端、僧徒から猿の不始末を聞かされ、俺の怒りは頂点を越えた。
喚く猿の耳をひっぱり、強引に裏の座敷牢へ放り込む。格子戸を思い切り閉めて、騒ぐのも聞かずに部屋へ戻った。
経文と銃を放り投げ、煙草をくわえてベッドへ身を預ける。頭ん中では、猿の声が響きっぱなしだが、それが既に日常になりつつある今、いちいち気にする事も無くなった。
五行山の岩牢から、あの野猿を拾ってどれくらいになる?自分の仕事に加え、猿の躾、一日だって休まる時がないくらい、毎日目が廻りそうなほど忙しい。
「くそったれ」
それが誰に対しての悪態なのか、立ち上る紫煙を眺めていると、瞼が重くなってくる。俺は咥えていたそれを灰皿に押し付け、ごろりと横になる、睡魔は直ぐにやって来た。

「—— っ」
叫び声が聞こえたような気がして、俺は勢いよく身を起こした。
猿と、呼んでから、座敷牢に閉じ込めた事を思い出した。
『三蔵ーっ!』
ぐっと心臓を鷲掴みされたように、猿の声が俺を呼ぶ。
「悟空…?」
例えようのない胸の疼きが足を早くする。鍵を外し格子戸を開ければ、射し込む僅かな陽光の中に、子供の背中が見えた。
「悟空」
反応がない。近付いて再び名を呼ぶと、びくりと身体が揺れて振り向いた顔は、涙と泥に汚れていた。が、その手にこびりついたものが、泥だけではない事に気付き、俺は声を荒げた。
「バカ猿!」
指先は赤く染まっている、中指の爪はかろうじで付いている状態だった。この手を見れば何をしていたかなど、聞かなくても分かる。
「さん…ぞ」
搾り出すように俺を呼んだ後は、続かなかった。火が付いたように泣き出したそれが、手の痛みだけの所為ではないと、俺は今になって気付いた。
昏く冷たい岩牢での、五百年の孤独 ————
知っていたはずだった。
「悪かった…悟空」
自分でも驚くほど、素直に謝罪の言葉が出て、血だらけの両手を包み込むように握ってやる。小さな身体を抱き寄せたが、溢れる涙は止まらなかった。
だからだ…そう、だから俺は ————
「さんぞ…」
未だしゃくりあげる悟空は、何が起こったのか分からず、真っ赤な目を俺に向けた。それがあまりに痛々しくて、俺はその大きな瞳にも口唇を寄せる。
瞼に口付け、頬を滑って涙味の口唇を塞いだ。
「…ん、さん……ふぁ」
啄むような口付けを繰り返していると、そのうち悟空の身体から強張りがとれ、白い顔が薄紅に染まる。
「さんぞぉ…」
すっかり力の抜けた悟空を抱き上げ、俺は牢を後にした。
「少し我慢しろ」
傷に触れた途端上がった悲鳴に、もう少しだと言い聞かせながら、汚れを落とし消毒をする。包帯を巻きおえ、小猿を見れば涙を溜めて俺を見ている。そっと手を伸ばすとびくっと身体が震え、目を閉じた途端にぱたぱたと涙が零れた。
まったく、こいつときたら…伸ばした手はそのまま、悟空の頬へ触れた。
「さんぞう…」
「言いつけは守ると、約束しただろ」
「ふぇ…ごめ…な…さい」
縋り付いてくる小さな身体に、ゆっくりと腕を回す。この温もりに、心地よさを感じ始めている事を、頭の隅で自覚していた。
「泣くな…」
「うん…」
溢れた涙を拭おうと自ら手を上げれば、傷の痛みに顔が歪む。そんな幼い仕草に、吸い寄せられる様に、再び口唇を寄せた。
「さ……」
その絹の様な柔らかさを存分に堪能すると、悟空は身体ごと俺に凭れてきた。小さな身を抱き上げ、膝の上に向かい合う形で座らせる。
「さんぞ…いまの…なに」
囁くようなその声は、普段からは想像もつかないほど、艶っぽい。
「キス…ってんだ」
「キ…ス?」
教わった言葉を繰り返す悟空のそれを、俺はもう一度塞いだ。

「さんぞーっ」
自室の扉を開けた途端、中から小猿が飛び跳ねてきた。そのまま抱き上げてやれば、嬉しそうに笑う。
「お帰り三蔵。俺、今日はいい子にしてたよ。ちゃんと約束も守ったよ」
誇らしげな悟空の顔を見て、少しだけいじめてみたくなった。
「あの約束、もか」
口の端を上げて悟空を見れば、音がしそうなくらい勢いよく、それこそサルの様に顔を真っ赤にした。
「守ってるよ…だって一番の約束じゃないか…」
俯いて蚊の鳴く様な返事に、俺は満足してくしゃりと頭を撫でてやる。
『いいか悟空、キスの事は誰にも言うんじゃねえぞ』
『約束?』
『そうだ、一番の約束だ。破ったら二度としねえからな』
『うん、俺絶対に約束守る』
悟空を抱き上げたままソファへ身を沈めると、大きな金瞳が覗き込んだ。なんだと声に出さずに応えてやれば、この小猿はとんでもない事を言ってきやがった。
「さんぞ…キスして」
絶句…
こいつ、最強の「こまし」だ、それも天然の…
「三蔵…だめ」
小首をかしげる仕草に眩暈がした。が、それと同時にある事を思いついた俺は、悟空の耳元に囁いた。
「悟空、目ぇ閉じて口あけろ」
一瞬、きょとんとした悟空だが、何の疑いもなく目を閉じ口を開いた。
「開きすぎだ馬鹿、ちょっとでいいんだよ」
そうして薄くあいた口唇へ、ゆっくりと重なっていく。
片腕で悟空を支え、あいた手を頭へ回し逃げ道を塞いでから、口内へ舌を忍び込ませた。
「んんっ…」
悟空が驚いている事が、触れ合った所から伝わってきた。構わずに舌を進め、悟空のそれを絡み捕る。
苦しそうに眉を寄せる悟空に、息を吸い込む間だけ与え、何度も重ねあった。
ちゅ…くちゅ
「あふ…さんぞ…」
漸く解放してやれば、へなへなと胸に凭れその顔は、耳まで朱く染まっていた。
その悟空が胸元でくすりと笑った。
「何だ」
「ん、あのね…」
まだ赤みの残る顔を俺に向け、
「三蔵の煙草の味がした」
と笑い、それからね…と自分の服のポケットを探る。
「これの味もした」
開いた手に乗っていたのは、一粒のキャンディ。
まったく、お前って奴は…
「甘かったか?」
訪ねた俺に、悟空は今日一番の太陽を、見せた。

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